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マットを背負う日『火星の生活』ー堀部篤史

早朝、4:30に起きる。東の空は白んでいる。ボルダリング用のマットを背負い、駅まで歩く。始発が出発する時間まで、まだ少しある。コンビニエンスストアでコーヒーを買う。目の前の信号機が点滅をしている。トラックが猛スピードで通り過ぎていく。スーツ姿の男性が一人、女性が一人歩く。どこの国だろう、知らない言語を話す女性のグループが三人、改札を抜けた。

始発の電車に乗る。平日。酔っ払いもいない。1つの車両に3人ほど乗客がいる。長津田駅で乗り換える。改札を抜けて走る。背中のマットが揺れる。改札を抜ける。電車がやってくる。一番前の車両まで歩いていく。マットを角に置き、椅子に座って眠った。目が覚める。あと二駅で再び乗り換える。八王子駅。階段を上り、下り、停まっている電車に乗り込む。日差しが強い。真横から光が差し込む。まぶしそうに目を細めて本を読んでいる。リュックから『火星の生活』を取り出す。

拝島に着くと再び乗り換える。青梅線が来るまで少し時間がかかる。ニューデイズでコーヒーとカロリーメイトを買う。ゴミ箱にごみを捨てる。ホーム。電車を待つ。再び『火星の生活』を読む。

電車の窓から日差しが入る。文字を読むスピードが落ちて、眠りに落ちた。手に本を握りしめたまま。終点のアナウンスで目覚める。青梅駅。再び乗り換える。間もなく多摩川が見えてきて、沢井駅で降りた。お店はどこも開いていない。9月下旬。真夏みたいな日だ。

ロッキーボルダーと言われる岩の前。マットを下ろす。ラジオ体操第一をyoutubeで流して、準備運動をする。散策路を歩く夫婦と思しき人が、訝し気に挨拶をする。「おはようございます」「おはようございます」私たちは、ラジオ体操の音楽に合わせて、あいさつを交わす。

『火星の生活』は、京都で本屋を営む店主の雑記。雑記は彷徨う。彷徨って馴染みの場所に辿り着き、昨日と今日が地続きであることを知り、家へ帰り、寝て、また未知の明日と出会う。未知と出会い、悪戦苦闘し、馴染みの場所で記憶と邂逅し、また今日を失い、明日を向い入れる。

岩から剥がれ落ちた。岩の前に座る。佇む。できなかったことを思う。同じ動作を繰り返す行い、ストレスを減らしていく。手の痛み、恐怖心が馴染みの場所になる。
わずかに、あるいは大きく今までと違った動きを取る。落ちる。また、同じ動きに戻す。実験。動画を撮る。自身の姿を見る。修正。改善、もしくは改悪。太陽が真南をすぎる。疲労は感じない。持ててたものが持てない。体は疲れている。

インスタントコーヒーを作り、『火星の生活』を読んでみる。頭の中では、岩のことしか考えていない。上の空。登れないシークエンスのこと。まだ触れたことのない未知のホールド、足りないピース。

電車の中で日が暮れる。窓の外は暗い。乗り換えの駅でシュークリームを妻と子どもに買う。手のひらがヒリヒリとする。手の甲には血がついている。登れなかった。

眠る前に再び『火星の生活』を開き、読み終えた。コンビニエンスストアでも、自動販売機でもない場所で、今日の失望と出会いたいと思う。

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