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ストロング、モロー、ノーマン、シャハト ゴールド107

1926年7月、エミール・モローがフランス銀行総裁に就任した。

戦後の貨幣制度では、金を所有する者が権力を手にすることにモローは気付いていた。そして、彼は人間として見た場合、一匹狼だった。

ノーマンとモローの対立

イングランド銀行総裁ノーマンは一時期ドイツで過ごしたこともあり、いつでもドイツ人を贔屓し、フランス人を敵視していた。

そして、ノーマンはモローを情け容赦なく見下していた。モローはノーマンの好みに全く合わなかったのだ。

さらに、ノーマンとドイツ帝国銀行総裁ヒャルマー・ホラース・グリーリー・シャハトは親密な間柄にあったため、ノーマンとモローは激しく対立した。


ストロングによる仲裁

1927年にはノーマンとモローの対立はいっそう激しくなった。

そこで、ニューヨーク連邦準備銀行総裁ベンジャミン・ストロングが二人の仲裁に入った。

それでも二人の対立は続き、7月にはストロング、モロー(モローは渡米を拒み、代理人が参加)、ノーマン、シャハトが合衆国財務長官の招きでロングアイランドで和平会議を開いた。

その場でも、ストロングは再び助け船を出した。ストロングはポンドへの圧力を取り除くため、連邦準備銀行がアメリカの利率をさらに下げることに同意し、その一方でフランス人が売却するポンドと交換するための金を追加した。

※利率をめぐるストロングのふるまいにはもちろん私心があった。当時の合衆国経済は低調で、物価が急激に下落するという事態が生じていたのだ。そして、この低金利政策によりウォール街は空前の活況に沸き返り、これが1929年10月のウォール街大暴落へと繋がった。


ゴールド 金と人間の文明史 ピーター・バーンスタイン

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