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#49 花火のような一瞬の輝きより、続いてくれる「発露としての美しさ」を求めて|伊佐知美の頭の中

最近、「年を重ねてきちゃったねぇ」と思うことが増えた。最近、っていつくらいからのことを言っているんだろう、と振り返ると、この2・3年くらいな気がした。

ティーンで最強だった私は20代前半を迎えて、20代後半は夢に突っ走って30歳で一度離婚して、34歳で沖縄に引っ越した。

その頃同時に、突っ走っていた間は「まぁ、いつかはね、もしかしたらね」と思いつつも隅に追いやっていた、というか優先順位をゴリゴリに下げていた子どもを産む、という未来に向き合いたいなと思うようになった。
やっとそう真剣に思えるようになった時期には、私はあんまり気にしていなかったんだけれど、世間一般には「高齢出産」と呼ばれる年齢に達していたらしく、子宮頸がん検診に引っかかったり、よくよく検査をしてみると卵巣も年齢に伴ってだいぶ疲弊しているぽいよ、という現実にも向き合わざるを得なくなった。

36歳ですって。率直に言ってウケる。随分と大人になっちゃったなぁ。もちろん、今の時代を生きる人類としては、まだ前半戦であることは頭ではわかっているけど、「私の人生」の大半は、今まで「若い時代」で出来上がっていたんだから、「もうそうじゃない」ことを受け入れるには、随分と時間がかかってしもうた。

大人であることを、もう「若者ではないこと」を受け入れる。液体みたいに輪郭を定めずに、「まだ何者でもないんで〜」と言える空気は、日本においては、私の周りからは消えてしまったように思える瞬間も増えてきた。仕事でいえば、いつの間にか、ライターや編集者を育てる立場の仕事も増えて、エッセイはお手本記事を書くようになってしまった。駆け出しだった私がいたのは、もう10年前のこと。

「周りからどう見られるか」から、「より私を愛するために」へ

美しさ。美しくありたいな、といつの時代も思ってきた。私は外面がいいと思う。いつまでもやっぱり引きずってしまうのだけど、人生の土台を作る小学生前後で転校を繰り返しすぎて、「新しい環境に入る時は人当たり良く、みんなの空気も軽やかに」が板についてる。外面の良さは、結局は「周りからどう見られるか」を強く意識するということで、つまりは外見をある程度整えておくことも私にとっては非常に重要だった。

今でも私は、365日のうち360日くらいは大小あれどメイクする日々を送っている。けれど、大人になる途中で気づいたのだ。確か、若い頃、それこそ大学生時代や新卒で働いていた頃は、誰にどう見られたいか、ということに重点を置いて(無意識でもね)選んでいたような気がする服装もメイクも髪型も、いつの間にか「私が私の日々を愛せるように」という視点で選ぶようになったな、ということに。

誰かのために、とか、その場に馴染めるように、という視点ではなく、「私が私のために」生きられるようになったのも、やっぱりこの数年、「大人になっちゃったなぁ」と思い始めるくらいのこと、だった気がし始める。

「若くない時代」を生きる時間は、思っていたより長そうで。むしろその時間の方が、大半を占める時がいつか来る。その短くない時間を、「誰かのために」生きることは、誰のための人生でしょうか、みたいな気持ちがメインになったら、随分と私なりの「美しく生きる」がやりやすくなっていったなと思う。

続いていく美しさ、内面の発露としての仕事や暮らし

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