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恋愛と性愛

CLAMP:ちょびっツ

貧乏浪人生の秀樹はゴミ捨て場に捨てられていたパソコンを持って帰る。ちぃと名付けた彼女には何のソフトもデータもないが、家電と割り切れない秀樹と時間を過ごしていくうち、ちぃの過去とその秘密が明らかになっていく。

パソコンのちぃと人の秀樹が「好き」って何?ということに対してとてもわかりやすく、かつ具体的に悩んでくれる。相手が嬉しいと自分も嬉しい、側に居たい、他のヒトとは違うヒト。作品内で語られる”だれもいない町”という絵本で真正面から「好き」が補完されていく。

自分が自分だから好きでいてくれる
その人がその人だから好きなのである

「他の人とは違う好き」が、ちょびっツの中ではこう定義されている。人ではないから・パソコンだから・見た目が可愛いから・特別なスペックだから……そんな理由がある「好き」をちぃは一蹴し、「ちぃがちぃだから」好きになってくれるヒトを探している。
そしてその条件を満たすために最難関ハードルも最後に用意されている。

でも アタシだけのヒトがアタシだけを好きになってくれたら
それがアタシだけのヒトとアタシのお別れの時だ

この意味は後半明らかにされるのだけれど、要するに「セックスしたらジ・エンド」ということ。ちぃの起動スイッチは股の間、ヒトなら性器のあるデリケートな場所に作ってある。セックスするとちぃは強制的に再起動してしまい、全てのデータ=人格をその都度消去されてしまう。
ちぃは少女の姿をしているけれど家電だ。秀樹と両想いだけれどセックスはできない。人間同士じゃないから結婚もできない。生殖なんてできるわけもない。
好きな異性とセックスして、結婚する、家族になる、というロマンティックラブイデオロギーに真っ向から勝負を挑んでいるのだ、このちょびっツは。
好きどうしなのにセックスできないけど、それでも秀樹はちぃを好き?と。

「好きだから」と「セックスしたい」というのがイコールになってしまうのがロマンティックラブイデオロギーの罠だと思っている。「愛」と「性欲」は切り離せるものなのに、そこに恋愛感情という砂糖衣をまぶしてふたつをくっつけて境目を見えなくしてしまったのだから。

秀樹とちぃはCLAMPによってある種強制的に恋愛から性愛へのフロースルーをぶった斬られてしまったわけだけれど、だってちぃはそもそも性的欲求なんてプログラムされてなさそうだし、ちぃの幸せのお話なんだからハッピーエンドだと思う。
アセクシャル当事者にとって綺麗なおとぎ噺。少なくとも、僕にとっては。

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