東日本大震災から10年経って
※この記事は、2021年3月11日に、私の前ブログ『我が逃亡と映画の記録』にて、書いた記事です。どうしても残しておきたかったので、こちらにアーカイブします。
東日本大震災から10年経って
今日は、あの日から10年。この日が来るたびに思い出す、ある人がいるので、少しばかり筆を取る。
こんなことを書き始めたが、奈良の片田舎出身の私にとって、当時、あの震災は、それはそれは他人事だった。まだ中学1年生の自分にとって、地震は他者の体験でしかなかった。確かその日は、学年全体で、飛鳥村を散策する行事だった。震災のことなど露知らず、のほほんと男連中と遊んだのを覚えている。この日だけ私服登校だったので、気合を入れてブーツなんて履いて、"おしゃれだね"なんて意中の女の子から褒められ、意気揚々とうちに帰ったのを覚えている。
帰宅して、見たかった番組を見ようとテレビをつけた時、ようやく震災を知った。物凄いことが起きていて、ニュースに流れる撮影者の悲鳴が、なんとなく父に殴られる母の声に似ていて、すごく嫌だった。悲しくないのに涙が出た。その日から、ずっとニュースとACジャパンがテレビを占領した。私は、どうにもあの叫び声に我慢ならず、テレビを見るのをやめた。
学校でも先生が震災の話をした。「今、日本は大変だから」なんて無関係な人間が、決まり文句のように言うもんだから、私はなぜかイライラした。付き合っていた恋人まで、イチャコラしている間にそんな話をしてきた。「地震、すごかったね」なんて。黙ってたらもっと話し出して、「ニュースで叫んでる人見たら、泣けてきて」なんて言い出したもんだから、「地震とお前に何が関係あるん」
と言った。彼女は泣いた。彼女が放った”すごい”ってのは、”ひどい”だとか”かわいそう”という意味で、私はそれが自分に向けられたわけでもないのに、心底イライラした。
それから2年が経って、見事に田舎のクソ溜めに変貌した私は、きたる十五の夜、とある事情で学校を暇になる。その頃は、もう震災など遠い昔の話だった。なのに、私に処分を言いにきた先生は、「東北はまだ大変やのに、お前は本当に社会のクズだな」なんて言ってきた。「東北と俺に全く関係ない。東北とお前にも全く関係はない」と言ったら、三発殴られた。殴り返そうとする私に、別の先生が「お前は必ずやり直せる!腐るな!」なんて言ってきた。「殴り返そうとしたら、腐ってるってことになんのか?」と聞いたら、見事に無視された。”哀れ”顔選手権だったら、多分優勝だろうなって顔で見つめるもんだから、握り拳の行き先を失った。
謹慎というのは、恐ろしいほどに暇で、私は反省も程々に、また同じことを繰り返していたある日、東北の話を出した先生のことを思い出して、殆ど好奇心だけで、ニュースでよく耳にした街に向かった。奈良から、鈍行列車と途中ヒッチハイクで乗り継いでやってきた私は、中学生の一人旅にしては、なかなか度胸がある気がして、たいそう大人になった気分だった。
トメさんとの出会い
東北行きの列車は、まさしく『雪国』の描写に近くて、夜の底が白くなる、あの感覚は正しいなと感じた。あれは確か上越の話だから、場所は違うのだが。
とにかく降り立った頃には、夜だった。あたり一面真っ暗で、全く光がなかった。妙に怖くなって、光を求めて彷徨った先にトメさんはいた。夜だってのに、一人ポツポツ歩くトメさんの見た目は齢80近く、「この辺の人ですか?」と必死の形相で尋ねる私を見て、嬉しそうだった。薄着の私を見て「どこからきたんですか?」と優しく尋ね返してきた。そうこうして、晩飯でもどうぞと家にお呼ばれされ、トメさんの家に向かった。道中で、色んな事を聞いた。質問攻めの私に彼女は愛想良く返答してくれて、こんな大人もいるんだなと思ったのを覚えている。私のことは一度も聞いてこなかった。
彼女は、その晩、カニ鍋を振舞ってくれた。一目散で、犬のように頬張る私は、トメさんと喋る間もなく全部平げて、雑炊に手を伸ばした。トメさんも嬉しそうに見ながら、蟹をどんどん入れてくれた。「よく食べますね」なんて言いながら、ほんの少し食べては、私にお茶を注ぎ、ほんの少し食べては、付け合わせにと、漬物やきんぴらを冷蔵庫から出した。
そして、少しして泣き始めた。「すいません、食べ過ぎました」と訳のわからない気の遣い方をした私に、「違うんですよ」と彼女は笑った。私の姿が、彼女の息子さんと被ったらしい。私はそれを聞いて、はっとした。この家には仏壇があった。話を聞くまで見向きもしなかった。
彼女の息子さんは、漁師をやっていた。蟹はその仲間が送ってくれたそうだ。津波があった頃、高台の彼女の家は無事だったが、出先だった息子さんは流されてしまったらしい。蟹が大好物で、いつも蟹鍋の時は無心に頬張っていたらしい。「ごめんなさいね」と場を離れる彼女の後ろ姿を見て、胸が締め付けられた。初めて、震災を震災として感じた瞬間だった。いまこの瞬間、あの人は喪失感に苦しんでいる、そう思うと、どうしたらいいか分からなくなった私は、そのまま雑炊を食べ続けた。
少しして戻ってきたトメさんは、初めて私に質問してきた。
「どうして一人なの?」
「ちょっと色々あって。奈良からきたんです」
「中学生くらいでしょ?家の人は?」
「別に誰も心配しませんよ」
「家に電話かけるから、電話番号教えてください」
けれど私はその日、結局電話番号を教えなかった。そのまま息子さんの部屋で寝かせてもらった。トメさんは、あれ以上息子さんの話をしなかったし、私も自分の素性は隠した。お互いがお互いの秘密を感じながら、聞くに聞けない感覚だった。息子さんの部屋は、ほのかにオジサンの匂いがした。至る所にエロ漫画があって、思春期の私には最高の場所だった。賢者タイムの折、ふと思った。このエロ漫画を買った人間は、確かに存在していた、でも今は確かに存在していない、それが怖く感じた。
明くる日、人生が変わる。
昼頃に目を覚ました私が居間に出ていくと、トメさんはもういなかった。机には朝食が置かれていて、「昼過ぎには戻ります。まだ帰らないでね」と置き手紙があった。”まだ帰らないで”と言われたのが、当時の非行少年には心底嬉しかった。ご飯を食べて、でもすることがないから、息子さんの部屋を物色した。
夜には見えなかったものが、昼間にはよく見える。彼の部屋には、エロいもので埋め尽くされていた。壁一面にはロマンポルノのポスターが貼ってあって、本棚にはピンク映画やロマンポルノのVHSの山が綺麗に整頓されていた。私はその頃、ロマンポルノなんて聞いたこともなかったから、古いAVがいっぱいあるという認識だった。トメさんがいないうちに、と、VHSをデッキに入れて見始めた。
それがたまたま、『連続暴姦』というピンク映画だった。AVじゃないんかよ、と落胆しながらも見続けた私は、この作品で、雷が落ちるような衝撃を受ける。”ここに出てくるのは、みんな俺だ”というあの感覚だ。当時、私にとって映画とは、ただのデートの手段でしかなかった。しかし、トメさんの息子さんにとっては、そうじゃないんだ、とはっきりわかった。”こんな世界があるのか”と衝撃を受け、同時に、なんだか自分が許された気持ちになった。それから、違うVHSに手を伸ばした。何を見ようか迷ったけれども、息子さんの残していた映画記録のノートを見て、☆がカンストしてるものを見ていった。
『天使のはらわた 赤い淫画』『レイプ25時暴姦』 の2本を見た。なぜ、息子さんはレイプものばかりに☆をつけているのか、全く見当がつかなかったが、この3本を見たあと、泣きそうなのを堪えてぼーっとしていた。その全てに衝撃を受けて、その衝撃のあまり賢者タイムみたいになってた。
帰宅のトメさん
そんな状況の中、知らぬ間にトメさんが帰ってきていた。トメさんがこちらを見ているのに気づいた。昨晩と同じように泣いていた。今度ばかりは、また私を息子さんと被せていることがわかった。「息子さん、映画好きだったんですね」と話しかけた。そう話しかけた後、彼女の顔は”喪失感”そのものだった。私は、さっきのセリフをひどく後悔した。私にとっての震災と、彼女にとっての震災では、全く重みが違った。同様に、その間に流れた2年間は、彼女にとっては”まだ”で、私にとっては”もう”だった。止まらない彼女の涙と、それを隠す彼女の仕草にいたたまれなくなって、思わず家から逃げた。
少し歩いて、海を見た。海無し県出身だからか、ひどく辺境に来たという感覚があった。もう奈良に帰ろうと考えた。けれど、私は息子さんのノートを持ってきてしまっていた。開いてじっくり読んだ。ピンク映画やロマンポルノのレビューがぎっしり埋め尽くされていた。ちょくちょく一般作もあった。”クーリンチェは人生だ”って書いてあった。”佐藤寿保はわかっている”と書いてあった。”最近のピンクはもうだめだ”とも書いてあった。映画と共に彼の人生があったんだと知った。最後のページに、明日は〇〇を見ようと書いてあった。人生の終わりを見てしまった気がした。
私にとって、もうその時、震災とはトメさんのもので、街が流されて更地になったのを高台から見ても、トメさんのことしか頭に浮かばなかった。でも、奈良で震災のことを語る先生やあの子よりも、もっと身近に感じられるようになっていた。それでいいんだと思った。何万人が死んだことよりも、トメさんの息子さんが死んだことの方が、もっと大きなことに感じられた。トメさんの家に帰ろうと思った。いや、というよりは、地震が来なければ見るはずだった、息子さんのノートに書かれた最後の映画を、私は見てみたかった。見なくてはいけない気がした。
帰宅した私、トメさんとの心の対話。
とぼとぼ帰る私を、トメさんは暖かく迎え入れた。「行く場所なんかないのに!事故にあったらどうするの!」と少し怒られた。抱きしめられて涙が出て、なぜか私は「すいません」と謝っていた。夕飯を食べて、トメさんは息子さんの話を、ずっとしてくれた。私も自分の話をずっとした。昨晩、秘密のままにした互いの秘密は、曝け出すと本当に他愛もない、どこにでもある普通の感情だった。でもそれが嬉しかった。
最後にトメさんは、「息子の遺品を整理したい」と語った。「大事な思い出なのにいいんですか?」と返した。「ずっと思い出しちゃうから」とトメさんは返した。きっとこんな会話が、あの震災以降、腐るほどあったんだろう。私はなんだか、息子さんがかわいそうに思えた。
「あんなに映画集めるの、絶対大変でしたよ、息子さん」
「いいのよ、死んだんだから」
「可哀想ですよ。息子さんの宝物ですよ」
「だから」
と言葉を詰まらせた。愛ゆえに、捨ててはいけない気がした私に、トメさんは、愛ゆえに捨てるのだと話した。私は、遺品整理を手伝うことを決め、その日は終わった。
夜中、私は息子さんの最後に見ようとした映画を探した。VHSが、殊に保存状態が悪く、何度も線が入り、音も途切れ途切れだった。きっと人生で何度も何度も何度も、擦り切れるほどに見てきたのだろう。でも作品名はよくわかった。『真夜中の妖精』。
最後まで見ることはできなかったけれども、あの歌だけは脳裏に焼きついた。この映画を、奈良に帰ってから見たとき、私はあの山科ゆりを見て、ひどく泣いた。余談だが、この映画で歌われる童謡に憧れて作ったのが、『濡れたカナリヤたち』という作品だ。
遺品整理とトメさんとのお別れ
何日か、何もせず無為に過ごした。トメさんは、「あんたまだやり直せるからね」と励ましてくれた。「みんなそう言います」と返した。「みんなあんたのこと考えてくれてるんよ」と返ってきた。「みんなやり直せるって言うんですけどね、俺、そもそもまだ何も終わってないんですけど」と返すと、馬鹿みたいに笑われた。トメさんと過ごした数日で、反抗期が見事に終わった。みんないいやつだな、と思っては、息子さんの映画を貪るように見た。
徐々にダンボールに息子さんの遺品を整理して、庭で燃やし始めた。映画を燃やすのは、なんだか申し訳ない気持ちでいっぱいだったけれども、トメさんが爽やかな顔をしていたから、よかったんだと思う。全部整理し終わった日、トメさんはまたカニ鍋をしてくれた。
また犬のように頬張る私を見て、でもトメさんは泣かなかった。代わりに、私が泣いた。どちらも言葉にはしなかったけれど、明日帰ることが決まっているように感じたから。別れの匂いが、鍋に充満していた。ごちそうさまの代わりに「ありがとうございました」と言った。もう寝ますね、と部屋に向かう私に、「頑張り。全力で頑張りなさいよ」と言ったトメさんは、どんな気持ちだったろうか。
翌朝、寂しくてたまらなかった私は、何も言わずに家を出た。一応、置き手紙に住所と電話番号を書いた。私は彼女にとって大した存在じゃないのかもしれないが、それでも息子さんの喪失感からようやく乗り越え始めたトメさんに、また喪失感を与えさせてしまいそうで、怖かった。いや、今思えば、ただ自分が辛かっただけなんだと思う。『別れ』が恐ろしくて、逃げるように東北を後にした。
以降の交流
それから私は勉学に励んだ。とにかく高校受験に向けて勉強を始め、悪友とは断絶の一途だった。高校に上がっても、トメさんの言葉を信じて、ただ勉強した。知らぬ間に、成績が上がり、高三の頃、わりかし大きな模試で一番をとってしまったあたりで、勉強に飽きた。完全にビリギャル状態だった私も、目的のない勉強に疲れた。でも、心のどこかに”映画”があった。怠け者体質は抜けず、成績を盾に逸脱行動を許された私は、学校をサボって何度も映画館に行った。塾でも映画ばかり見た。結局、どんなに勉強に打ち込もうが映画からは離れられず、私は大阪芸大の門戸を叩いた。
中三から、大学入学までの4年間、合わせて二十四通の書簡を往復した。トメさんは、勉強に励んでいる報告より、映画を見た報告の方が嬉しそうだった。大学に入って、忙しくなって、彼女からの連絡もなぜか途絶えたから、徐々にあの東北での記憶は薄れ、忘れつつあった。が、たしか大学3年の頃、トメさんとは違う東北の住所から手紙が来た。
「トメは先日他界しました。葬儀の連絡をしようか迷ったのですが、お忙しい身で、迷惑をかけてはいけないと思い・・・いつも手紙をやり取りしてくださってありがとうございます。姉も幸せだったと思います。」
トメさんが亡くなったと知った。亡くなっただけじゃなく、葬儀も終わっていた。悲しみたいのに、悲しむ場所もなかった。毎日一緒にいた学友に、トメさんの話をして気を紛らわせたけれども、その喪失感から抜け出すには時間を要した。
東日本大震災から10年
10年とはただの数字だ。まして、トメさんが亡くなった後、私には東日本大震災が、また他者のものに感じられる。それでも10年の中にトメさんと息子さんがいて、トメさんと私がいて、私と息子さんがいる。今はそんな風に思うようにしている。
10年ってのは、ただの数字だけれども、記憶もまた数字だ。私は、私の記憶を浚うことでしか、もはやこの10年を感じられないけれども、でも決して忘れることのない記憶だ。
この節目の日に、トメさんとの短くも温かい日々を浚い、これまでの10年、これからの10年を思い馳せる。私はまだ奈良で生きている。トメさんは亡くなったけれど、私は生きている。多くの方が亡くなり、辛い記憶も多い震災だけれども、私は生きているのだ。彼女の「全力で頑張りなさい」というあの言葉を、忘れない。
合掌
いつの日か、私の映画を息子さんと見に来てくれると嬉しいな。