戦争とは、なんぞや。
微笑たたえてこの世に誕生した主人
1933年(昭和8年)、主人は東京の下町、千住で生まれ育ちました。
写真の横に、「微笑をたたえてこの世に誕生」と、自分で書いてるのが、いかにも主人らしい。
悪ガキだった主人は、両親がやってた小さな酒屋でジュースをもらい、近所の子をジュースで釣って子分にするという。
腕力より、悪知恵ってか(笑)!
そして、1941年、太平洋戦争がはじまりました。
小学生だった主人だけ疎開へ
4つ違いのお兄さんは、両親と千住に残り、主人は、千葉県松戸市北小金の親類の家に疎開しに行ったそうです。
疎開先の学校で、一番嬉しかった思い出は、ノミやシラミを殺すために頭からつま先まで、ぶぁっとかけてくれる「ディー・ディー・ティー (DDT)」だったそうです。
その粉を落とさないように、ソロリソロリと疎開先の家まで帰って、布団の上ではらう。
「なんで、粉をかけてもらうことが嬉しかったの?」と聞いたら、
「それが誇らしかったんだよね。宝ものみたいな感じがした」と、クスクス笑いながら話す主人。
疎開はしても、休みになると、ときどきは千住の家に帰ってたみたいです。
アメリカ人は、鬼畜生だ!
戦争中、アメリカ人は、鬼畜生だから、見つけたら、竹槍でグサッと刺して殺さなきゃいけないんだと教えられてた主人。
どこかで会ったら、竹槍で突こうといつも思ってたそうです。
ある日、アメリカの飛行機が落ち、米兵がおりてきて、周りにいたみんなが鍬や槍などを持ちワァワァ騒いでいたんだけど、怖いからみんな近づけない。
そのうち、憲兵が米兵を学校の講堂の小部屋に連れて行ったので、悪ガキだった主人は、コソ〜っと覗きに行きました。
そこにいたのは、恐怖で全身をブルブル震わせてた青年だったそうです。
そこで、“はっ!アメリカ人は鬼畜なんかじゃないぞ?”
肌の色、瞳の色、髪の色は違っても、俺たちと同じじゃないかと気づいたそうです。
戦争中、父親も軍隊へ
主人のお父さんは、ビルマに行かされたそうです。
留守をまもる女性たちは、きっと勝つことよりも、どうか無事に帰ってきてと思っていたのではないでしょうか。
戦争に取られたご主人たち、息子たち。
疎開して親もとを離れた子どもたち。
どんな思いだったのだろう。
そして、東京大空襲
我が家が壊される日 天野祐吉
東京の千住で小さな酒屋をしていたぼくの家が、とつぜん壊されることになった。
父は招集されて戦地のビルマに行ってたし、ひとりで店をつづけていた母は、ただもうオロオロしている。
千葉の知り合いのところに疎開していたぼくが、日曜日にたまたま家に帰ったら、「自分の要るものはぜんぶ疎開先へ持っていけ、この家はもうすぐなくなっちゃうんだ」と、母は言った。
中学生だった兄がもっともらしく説明してくれたところによると、家の前の道は狭くて、空襲のときの防災活動がやりにくい。
だから、家を壊して道を広くする、ということらしい。
うちだけじゃない、お隣もそのお隣も、みんな壊されるんだから仕方がない、お国のためだ、というようなことを兄は言った。
それから一週間くらいあとだったか、家の取り壊しが行われた。
どこからか人が大勢やってきて、「早河屋酒店」と横書きの金文字が入った店の前面の壁にワイヤーをかけ、小型のブルドーザーみたいなもので引っ張ったら、メリメリッと音を立てて、わが家は半分くらい壊れてしまった。
あまりの簡単さに、ぼくらはポカンと口をあけたまま、その光景を見ていた。
そのすぐ後、ぼくの家があった一帯は、B29爆撃機の大空襲で、一面の焼け野原になった。
そのときぼくは、疎開先にいたのだが、家を壊したのになんの役にも立たなかったと、火の海から逃れてやってきた母がブツブツ言っていたのをおぼえている。
家を壊されたことへの国からの見返りは、戦後になっても何もなかった。
が、その代わりに、平和がきた。
家を壊されたことの弁償として平和憲法が手に入ったと思えばいいのさと、もっともらしい顔をして兄が言った。
もう戦争はない、だから家を壊されることはないんだよ、というようなことを言っていたように思う。
それから五十数年、父母は死に、先年、兄も死んだ。
そしていま、憲法も死にそうになっている。
いや、これまでもなんだかんだと屁理屈をつけ、暴力的な解釈をし、全身傷だらけにされてきたのだが、有事法制でいま、最後のトドメがさされようとしている。
憲法第九条をかえたい人たちの段取りははっきりしている。
まず有事法制で憲法にトドメをさしておいてから、数年後に「こんな形骸化したものはかえましょう」と言い出す算段だろう。
ぼくの家が壊される日が、また来るんだろうか。
そう言えば、家の前の道もかなり狭いしな。
(『世界』2002年7月号)
ガード下で着物を売る母の姿
空襲で焼け野原になった東京。
しばらくは、千葉の親戚の家に母、兄、主人も身をよせていたようです。
そして、お父さんが無事ビルマから帰ってきて、また千住に戻りました。
都立江北中へ入学(粗末な入学式)と、主人が書きこんでありました。
2013年、部屋を片付けているとき、主人の日記がでてきました。
戦後、どんなに餓えていたのか。
くる日もくる日も、小麦粉をひいて、ひいた粉で昼食、ひいた粉で夜食。
ひいては喰いひいては喰い、まるで鼠みたいだと思いながらもガラガラガラガラひく。
お腹はぺこぺこだったけど、よく眠れた日の〆くくりは、「武士は喰わねど高いびき……」
そんな中でも、おもしろいことを見つけては遊んでしまって反省してたり。
天野祐吉少年の中にチラチラ見える、ベースのようなもの。
この日記を、ずっと持ってた主人。
どんな思いで持っていたんだろう。
どんな国籍の人間でも、同じ人間。
同じ尊い命。
命をただの数だと、どうも思われてるような気がしてたまんないんだよなあ。ね、安倍サン。