刺された夜は、雨
エレベーターで男に押さえつけられた瞬間、「ああ、警察沙汰のやつ。」と私はため息を漏らした。
妙に冷静で、あまり暴れもしなかった。
反対に男は息が荒くて、切羽詰まった様子だった。当たり前か、お金がなさ過ぎて人を襲うほどなのだから。
「動くとこれがある」
私を脅かすため、男は果物ナイフをちらつかせていた――――
はい、こんにちは!いさごさきです。
前回の記事「刺された時の話をしよう」の続きとなりますが、今回は実際に刺されて倒れるところまで。
プライバシーの観点から多少脚色していますが、実体験です。
襲う相手は私で良かったのだろうか?
前回書きましたが、私は死にたい人間です、ナイフなんて全然怖くない。
男に襲われた現場はエレベーターでした。後ろから襲われ、突然のことで驚いたので「ひぃっ」と低めの悲鳴をあげ、なにかと思って男を睨んだけれど、「これは後で誰かに色々聞かれる騒動になりそうだな」なんて思いながら羽交い締めにされました。
「キャー」とか「やめて―」とか、騒がなかったのは男にとって期待通りだったかどうかはさておき、とにかく私は静かに、声を出さずに抵抗した。襲われるなんてのは、不快でしかなく。
エレベーターを何往復したかわからなかったけど、ずいぶん長くいた気がする。
男は私のバッグを探って、財布を取り出していた。
やっぱりお金。こういうときはお金なのだ。
わたしを怖がらせるためだと思うけど、「動くとこれがある」といって果物ナイフをちらつかせながら。
声には出さなかったけど「刺せるもんなら刺してみいワレェ!」とヤ〇ザばりに叫んでいてはいた。
男よ、襲う相手は私で良かったのかい?
たいして騒ぎもせず、怖がりもせず、しかも刺されたがっている。(声に出してないから伝わってはいないと思うけど)
そんなこと、聞けるはずもなく、エレベーターがエントランス階に着くやいなや、男はダッシュで逃げた。濡れた床にちょっと遊ばれながら。
死にたかったから、追いかけたのかもしれない。
私は、なぜだか追いかけた。
逃げられると追いかけたくなるものだし、財布を盗られていたし。1万円も入っていたかどうかわからない、大した中身のない財布にも関わらず。
だって刺されなったんだもん。
そう言いたい。言えないけど、言わないけど(今初めて言ったけど)
刺しておけばいいのに、刺さないから。だから私は追いかけた。多分。
武器は折り畳み傘だった。
ビルの敷地を出たところで、男に追いつき傘を振り回した。
剣術を習っていたわけでもないので型はめちゃくちゃ、どうやったら相手の急所を狙えるかもぜんぜんわからないまま、ただただ振り回していた。
声に出ていたかどうかはわからないけど、ぎゃーとか、わーとか、何かしら叫んでいた記憶がある。
心の中ではこうだった。
「なんで刺さないのよ!」
果敢に立ち向かうと、男もナイフをぶんぶん振り回した。
やっとのこと、である。
手を切られ、腹を刺された。
男としては、たまたま刺さって驚いたのではないだろうか。そんな顔をしていた。
念のため言っておくけど、私もわざと刺されに行ったわけではない。護身術も剣術も知らぬ一般人が、わざと刺されに行くなどという高レベルな技など知る由もない。本当にたまたまの結果だった。
ナイフは脅しで、実際使うことなんて考えていなかった。この女が追いかけてきて、傘を振り回してきたから仕方なく、という具合に。
裁判でもそんなようなことを言っていた気がする。殺意はなかったのだと。
男も想定外だったろう。
興奮してアドレナリンが出まくっていたからか、痛みは感じなかった。刺されてからもしばらくは、男にどうにか傘が当たらないかと立ち向かっていた。
でも。
急に、きた。
力が抜けた。
立っていられなくなって、その場に倒れた。
男は驚いて後退りしていた。
目を見開いて、自分がしたことに、恐怖を感じているかのように。
男は慌てて逃げていった。私を置き去りにして。
雨は激しく降っていた。傘の外に肩が出ないように、小さくなって歩く人々が、倒れた人間を構う余裕なんてないのだ。
さらに24時過ぎの路地。人通りがない。
死を目前にした人間
うずくまり、目前に迫る死を想った。
私は死にたかった。だからこれは本望なのではないか、とも思った。でも、いくつかやり残したと思ったことが浮かんでは消えた。
翌日は親友と会う予定があったこと。中学生の頃、憧れだった女の子と、ひょんなことから仲良くなれて、以来親友(と私は思っている)でいてくれる心優しい子。大好きな笑顔が浮かんで、明日はとりあえず会えないだろうと悔やんだ。
結婚というものをしてみたかったなぁと浮かんだ。当時想いを寄せる人がいて、いつかこの人と結婚するのだろうと根拠のない確信があった。でもそのときはついに来なかったと悲しくなった。
家族のことを思った。海外に単身赴任の父、日本で一人待つ母と、早くに子供ができ家庭を持った姉。それぞれが近くない場所で生活しているけれど、父が帰国するタイミングでは必ず集まった。仲は良い方だと思う。親孝行はまだ何もできていなかったけど、元気に長生きするといいなと思った。
色々なことを想ったけれど、でも最後には「やっと死ねる」の一言に尽きた。
明日から人に会えなくなる寂しさはあったものの、やっぱり生きているのは私に合わないから。生きるの、向いてないんだ。
本気で死を楽しみにしていた。
雨が余計な考えを消し去ってくれた
どのくらい時間が経ったのかわからなかったけれど、ずいぶん長いこと雨に打たれていたような気もするし、ほんの一瞬の出来事にも思えた。
少し寒い気がして身を小さくするものの、だんだんと感覚もなくなるからもういいかと開き直った。
何人かが歩いて通り過ぎたのをみたけど、気が付いてほしいような、気が付いてほしくないような。死を目前にして「生きていたい私」と「死にたい私」が少しけんかをしていたようにも思う。
雨の中は自分の内側へと耳を傾けやすい環境だった気がする。
大切な人を想う私、もう何もいらないと放り投げる私、誰かに見つけてほしいと願う私、誰にも気づかれたくない私、かわいそうな私、楽しい私。
色々な私が私に主張してくる。
死に際でも頭の中はうるさかった。もうこんなことも最後なら仕方がないと受け入れた。
痛みはなかったけれど、力が抜けて、目を開けているのもしんどくなって、静かに目を閉じた。