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いさけん「ヴァイオレットエヴァーガーデン」観たってよ

作品の存在は、世に出たときから知っていた。放映されるやいなや、アニメファンの中でも、ここ近年のアニメ作品の中で圧倒的No.1だと推す人も多い作品だった。


その名は「ヴァイオレットエヴァーガーデン」。

とにかく「泣ける」という評判だったのだけれど、結論から言うと僕は「泣けなかった」。

僕が泣けなかったのはどうしてなんだろうとずっと考えていたのだけれど、その理由がやっと分かった気がしたので、今回はその話を書いてみようと思う。

物語のあらすじが気になる方は、公式サイトを見てから続きを読んでみてください。

この物語は、物心ついたころから戦場で兵器として戦うことだけのために生きてきた少女が、戦争の終結と共に生きる理由を見失ったまま、あるきっかけで依頼人の代わりに手紙を書く「代筆」という仕事を通して、自分の(あるいは代筆を通して出会う人たちの)「心」を取り戻していく様子をゆっくりと丁寧に描いている。

僕がこんな風にまとめると、まだ観ていない人の中には、よくあるストーリーに感じる方もいるかもしれない。そして僕は個人的に、その感覚はあながち間違いではないと思っている。

実はこのヴァイオレットエヴァーガーデンという作品のストーリーだけに注目すると、その一つひとつは、まさに物語の「王道」の連続だ。ひとまずここではあえてこういう言い方をするけれど、要するに「泣かせようとしてくる」と言ってもいいだろう。

そして、僕が泣けなかった最大の理由もまたそこにあって、少なくともストーリーに関しては「目新しいことは起こらない」のだ。

こんなことを感じながらテレビシリーズを全て観終えた後、僕の中には、こうした王道のストーリーが「なぜ(今さら)多くの人の涙腺を崩壊させたのか」という疑問が湧いた。

時間がかかったけれど、その疑問への僕なりの回答がやっとつかめた気がしたので、この後に書いてみたいと思う。

まず初めに改めて、ヴァイオレットエヴァーガーデンのストーリーを形作っていく「テーマ」を書き出してみよう。

それは「親や兄弟姉妹に面と向かって言えない感謝の気持ち」であり「戦場から恋人に送る最後のメッセージ」であり「小さな子供を残してその命を終えていく親の想い」であり、そしてそれらに通底する「愛しているの意味」である。

作品では、これらのテーマがオムニバス形式で描かれていくわけだけれど、先にも書いたように物語の骨組みとしてはどれも古典的で王道のテーマだ。

ただそれは同時に、人間にとって「普遍的」なテーマであることも意味する。

実際、これらのテーマは他の多くの作品にも用いられている。むしろ、多くの作品の「質」とは、こうした普遍的なテーマを「どのようにストーリーの中に織り込むか」だと言っても過言ではないかもしれない。

普遍的なテーマというのは、その普遍性ゆえに逆説的に、そのまま語られても心に響かない。「家族を大事にしよう」とか「死に別れは悲しく切ない」とか「愛は素晴らしい」と言われても、そんなことは言われなくても分かっているし、場合によっては説教臭さすら感じてしまう。
だから、人はこういった普遍的なテーマを扱うときには様々な試行錯誤と趣向を凝らし作品へと仕上げていく。そして、それが多くの人に伝わったときに初めて「名作」になる。

しかし、ヴァイオレットエヴァーガーデンは、毎週放映されていたとはいえ、一枠にすると20分ほどのオムニバス形式のアニメ作品だ。だから、趣向を凝らしてテーマをストーリーに織り込む隙がほとんどない。だからどの話も、非常に真っ直ぐにテーマを描くことに挑戦することになったのだと僕は考える。

そしてだからこそ、勝手に物語の起伏を期待していた僕は、そのあまりの直球さに泣けなかったのだと思う。

けれど、泣けなかったのは僕個人の話であって、世の中の多くの人の胸を打つことになった。それは一体なぜなんだろう。

普段なら説教臭さすら感じてしまう普遍的なテーマを多くの人の心に届けたもの、それは「美しさ」なのではないか。

実際にヴァイオレットエヴァーガーデンの作画レベルは、京都アニメーションが手がけたアニメ作品の中でも、群を抜いて高い。当時のスタジオの全てを注ぎ込んだのではないかというくらい、細部まで信じられないほど丁寧に描かれている。始めから終わりまで、本当にため息が出るほど美しい。

アニメ制作に造詣は深くないけれど、それでも作品を一目見れば、それがどれほどの手間と技術を注ぎ込んだものなのかは分かるし、それを毎週リリースし続けたということを考えると、その間の作業量も熱意も想像を絶するものだっただろう。

そしてきっと、それが京都アニメーションの出した答えなのだと、僕は思う。

現代に生きる人の心は疲れ切っている。その疲れ切った心に、ただ普遍的なテーマ(≒正論)を投げ掛けても、誰も心を震わせない。誰しもが、そんな当たり前のことに心を震わせている余裕などないのだ。
そんなことより、目の前にある様々な問題や困難を乗り越えるのに必死だし、世の中に振り落とされないようにしがみつくのが精一杯だ。あるいは、分かりきったことに時間を割いているうちに、他の誰かに勝ちを攫われてはたまらないと考えてのかもしれない。

そんな僕たちの様々な「今」を忘れさせなければ、作品は見向きすらしてもらえない。だから、多くの作品はより強い刺激と大きな衝撃を、その中に詰め込もうとする。

けれど、ヴァイオレットエヴァーガーデンはそうはしなかった。テーマが普遍的だからこそ、京都アニメーションは直球ど真ん中の手法で勝負した。

ただ限りなく「美しく世界を描く」こと。

冷めきった人の心を溶かすほどの「美しさ」が、ヴァイオレットエヴァーガーデンにはある。だから作品を観始めた途端、思わず手を止め足を止めてしまう。そしてそのまま、その美しさの中にひたることができる。

そこで初めて、僕たちは背負っている現実という荷物を一度その背中からおろし、やっと「当たり前のことの素晴らしさ」を素直に受け止められる。

だから、涙を流す。

ヴァイオレットエヴァーガーデンという作品の本質は、そのストーリーでもテーマでもなく、人間誰しもが実は最初から持っている、代わり映えのしない(だからこそ日常の中で見失ってしまう)普遍的な「心」を伝えるために「美しさ」を極限まで追求し、それを成し遂げたことなのだと、僕は思う。

だからあえて、作品を観て涙をこぼさなかった僕が断言する。ヴァイオレットエヴァーガーデンは、まぎれもない「名作」だ。

僕たちは今もどこか「心を失った人形」のように生きている。そう、物語の主人公ヴァイオレットのように。

そこに届けられた一通の「心のこもった手紙」、それがヴァイオレットエヴァーガーデンだったのかもしれない。

さて、こうして一編の文章を書き終えた僕は、もう一度この作品を見返してみようと思う。

その時はもしかしたら、涙が溢れるかな。