人権と正しさと自分らしさと(あるいはバリアフリーはどこへ向かうのか)
Twitterを中心に、一時はかなり大きな波紋を広げた「車椅子の乗車拒否」の話題。
ことの発端は、2021年4月4日、コラムニスト伊是名夏子さんが、自身のブログに「JRで車いすは乗車拒否されました」という記事が掲載されたことでした(記事のリンクは以下の画像をクリック)。
コラムニスト伊是名夏子ブログ
「JRで車いすは乗車拒否されました」
この記事中の出来事については、ネット上でも賞賛と批判の声がどちらも多数噴出しており、個人的にも改めて障害者差別という問題の難しさを感じています。
同時に僕自身もまた、このブログを読んだ後に、拭いきれない違和感を持った一人です。
それについてはTwitterでもつぶやいたのですが、その段階では僕の抱いた違和感がどこから来たのかをうまく言葉にすることが出来ませんでした。
そこで今回、この話題が僕にもたらした違和感を可能な限り言語化し、またこのブログがもたらした社会への影響や、今後の社会の在り方について、個人的な意見をまとめてみようと思います。
第一章 「正しさ」を考える
①法律とは何か
今回の話をするために、絶対に避けては通れない話があります。それは国が定める「法律」の話です。
今回の伊是名さんが取った行動には「障害を理由とする差別の解消の推進に関する法律(障害者差別解消法)」という、法的根拠がありました。
その中で、今回のJRのような事業者に対しては、第八条において「障害者の権利利益を侵害してはならない」と明記されていますし、さらにその2においては「社会的障壁の除去の実施について必要かつ合理的な配慮をするように努めなければならない」と記されています。
【障害者差別解消法リーフレット(内閣府)】
ただ、今回の目的はこの法律の内容を精査することではありませんので、正式な法律の内容に興味のある方はご自身で検索していただくとして、この章ではまず、法律の詳しい内容についてではなく、現代社会における「法と人間の関係性」について、読者の皆さんと僕との間に共通の土台を作った上で、僕の感じた違和感を紐解いていきたいと考えています。
僕は、現代社会における「法の役割」とは、誤解を恐れずに言えば、個人の自由の「運用規範」であり、それは即ち多くの人にとって「制限」として機能することがほとんどではないかと考えます。
つまり僕たちは基本的に、法を「守る」ことによって、この社会を維持しています。
また一方で僕たちは、一人ひとりが法を守ることで、その対価として法によって守られていると勘違いしてしまいがちですが、僕自身は、法が守っているのはあくまで僕たちが暮らす「社会全体の秩序」であり、それによって間接的に僕たちの生活が守られているに過ぎないのだと考えています。
そしてこれから述べることは、社会秩序を考える上でとても重要な視点だと考えているのですが、法が社会秩序の維持を目的としているように、僕たち一人ひとりもまた社会の秩序維持と円滑な活動を優先するために、その秩序を乱さない範囲内で時に「法を破る」ことを選択することさえあります。
つまり、社会というものの中で生きている僕たちは、そもそも社会の維持と継続を最優先しているのであり、法もまたそのための規範の一つに過ぎず、だからこそ僕たちの多くは「法を行使する力」を自分が持っていることを意識することはほとんどありません。
もちろんより厳密に言えば、誰でも法を理解し、それに照らしてその力を行使することはできるのだけれど、そんなことに労力を割くよりは、法を一つの規範として捉え、ある種の「善悪」として受け入れることでそれに従い、また時には社会の秩序を乱さない範囲で法を逸脱したりもしながら、全体として円滑で波風の立たない社会生活を送ることを選択して生きているのだと思います。
要するに、多くの人はそもそも「法に触れない」ことを前提とした生き方をしているし、そんな風にして生きていれば、少なくとも社会生活で大きな困難に襲われることはないように、社会また基本設計を「法に触れさせない仕組み」にすることを目指しているとも言えるのではないでしょうか。
それでももちろん、そういう社会の仕組みの中でも法に照らして判断を迫られることもありますが、社会の基本設計に則り、そのような場合も僕たちは「法の行使」について、基本的には裁判所や警察などの特別な組織に任せているのが、多くの人の現状だと思います。
だからこそ逆に言えば「法に触れる」というのは、そのように「法に触れない(あるいは法を守る)側」の人にとって避けるべきことであり、それでも法に触れなければならなくなる時というのは、詰まるところ「良くないことが起きた」こととほぼ同じ意味になるし、さらに「法に従え」と言われることは、自分が「悪者である」と言われることと非常に近い感覚を抱く人も多いのではないでしょうか。
そして、こういった前提に向き合わなければ、きっと今回の話についての議論はあらぬ方向へと進んでしまうことになってしまうのだと思います。
② 法を守ること/法を行使すること
こうした前提を共有することで、今回の伊是名さんが取った一連の行動の中で最も注目すべきだと僕が考えるポイントが浮かび上がってきます。
それは、多くの人が議論の的にしている「伊是名さんがJR側に求めた配慮が合理的配慮であったか否か」ということよりもまず、伊是名さんはこの社会を円滑に回していくために法に触れないという、多くの人が選択している行動ではなく、自ら「法の行使」を行ったということです。
しかしそのことについては、意外なほど誰も言及していません。
そして、僕が抱いた違和感もまさにその点にありました。ここからは僕の抱いた違和感の正体を、具体的な例えを用いながら、さらに詳しく説明していきたいと思います。
まず今回の件で、多くの人に理解してもらいやすいと僕が考える具体的な例えは、警察がよくやっている交通違反の取り締まり、中でもいわゆる抜き打ちのような速度違反や一時不停止の取り締まり方法ではないかと、僕は考えます。
道路交通法を始めとする一連の法令は、当然のことながら現代社会の秩序維持に欠かすことはできませんし、当然のことながら誰もがそれに抵触しないように暮らすことを心がけていると思います。
しかし一方で、円滑な社会活動を行う上である種の「暗黙の秩序」のようなものがあり、普段の暮らしの中でしばしばその法令違反をお互いに見過ごしているという側面もあるかと思います。
例えば、生活道路で法定速度が著しく低い場合、むしろ法定速度で走っていることが多くの人を苛立たせるようなことも実際に起こります。
そうした中、定期的に行われる交通違反の取り締まりは、安定した社会秩序を保つ重要な役割があるわけですが、ごく稀に「違反が多発しやすいことを理解した上で、そのような場所で頻繁に取り締まっている」のではないかと思うような場合もあります。
見通しの良い長い直線道路で普段は法定速度を守っている車両はいないとか、一時停止線で停車してもその先の交通事情が全く見えないため、実際に安全確認をするのは停止線を超えてから停車しないと出来ないといったような場所ほど、頻繁に取り締まりをしていたりと、きっとそれぞれの生活圏での「取り締まり多発ポイント」をご存知の方も多いかと思います。
それでもどんな事情や暗黙の了解があっても、いざ法令に照らし合わせて判断をされると、それは法令違反以外のなにものでもありません。
圧倒的な「正しさ」は「法を行使する側」にあり、取り締まられる側のことなど一切関係ないのです。
そして自分がたまたまそうした取り締まりにあったとき、普段きちんと交通安全を意識しながら生活している人ほど、言いようのないモヤモヤとした気持ちを抱いてしまうのではないでしょうか。
そして僕は、今回の伊是名さんの行動はまさにこのような「違反が起こりやすいことを分かった上で行われる交通違反取り締まり」と同じ構造をしていたのだと考えています。
さてではここで、改めて障害者差別解消法の記述を引用します。
全ての国民が、障害の有無によって分け隔てられることなく、相互に人格と個性を尊重し合いながら共生する社会の実現に資することを目的とする
このように明記された法律がある以上、伊是名さんの今回の行為は法的には「正しい」のです。
伊是名さんが実際にJR側に求めた行為が合理的配慮の範疇であったかどうかというのは、実はどちらかと言えば些細な話であり、その点への否定的な意見というのは、先の交通違反の例えで言えば、取り締まりをした警察に対して「普段はみんな速度違反をしている」とか「こんなところで一時停止をしても何の意味もない」と反論するようなものなのです。
だから、正しさの話だけをするならば、ここで話を終わらせるしかありません。
しかし僕は、この話をここで終わらせるわけにはいきません。なぜなら、少なくない人が(そしてその中にはもちろん僕も含まれています)今回の件に関して「納得ができていない」からです。
伊是名さんは「正しい」ことをしたにも関わらず、どうして僕たちは納得できないのか。
そもそも、お互いに納得がいくように、今回の話を終わらせることができるのか。
それは僕にも分からないとしか言いようがありませんが、それでも僕は今回どうしても、僕自身も含めた一人でも多くの人の納得を引き出して終わらせたいと考えて、この先に続く長い文章を書いていこうと思います。
そこで僕はまず、その理由を明らかにするために、この章の最後で敢えて一度「納得などしなくてもいい」という話をしたいと思います。
③「正しさ」の限界
正しさに納得などしなくていいと言うために、いくつかの正しさについてまずは具体的に考えてみましょう。
まず一つ目の例としてあげるのは学問です。
言うまでもなく、学問に触れたことがないという人はほぼいないはずですし、その中には多くの正しさがあることも、説明は不用だと思います。
その中でも、例えば数学は、ある意味では正しさの塊みたいなものですが、その数学という学問が持つ極めて純粋な正しさによって、何もしなくても誰でも数学を理解できるかと言えば、もちろんそんなことはありません。
さらに他の分野、例えば歴史や考古学などでは、先程の数学とは真逆のようなことが起きたりもします。その学問におけるたった一つの新しい発見によって、これまで「正しい」とされてきたことが簡単に覆ってしまったという話を聞いたことがある方も多いのではないでしょうか。
つまり少なくとも学問において「正しい」ということは、それだけでは理解も納得もできるというものではないし、さらに納得しないことで別の可能性を発見したり、より整合性のある世界の見方を手に入れることもあるのです。
また、そもそも唯一の正しさが見つけられないという場合もあります。
有名なものでは「トロッコ問題」と呼ばれるパラドクスがあり、このような問いは考え方によって正解が変わる、あるいはそもそも誰もが納得する正解を出すための問題ではないとも言えるのではないかと、僕自身は考えています。
【トロッコ問題】
このような思考実験的な問いは無意味だと思う方もいるかもしれませんが、それと似たような状況に現在の日本が今まさに陥ろうとしています。
それは、今も世界的に猛威を奮っている新型コロナウイルスによって逼迫する医療現場において、発症者数への対応が限界に達しつつあり「トリアージ」の導入が真剣に検討されているからです。
【トリアージとは】
もちろん、トリアージを安易に命の選別と言うつもりではありませんが、これもまた現代医療という有限なリソースの限界点においては、行わざるを得ないのです。そこでは、例えば「全ての命は等しく最善を尽くして救うべきである」という「正しさ」は何もしてくれませんし、どの命を救うべきかという「正解」もありません。
このように、僕たちが扱える正しさにはどうしても「限界」があると言えるのではないでしょうか。
確かに様々な「正しさ」は、あらゆる場面において人間の意思や行動の決定において非常に重要な役割を果たします。
しかし人間が人間である以上、ここで挙げたような例からも分かるように、正しさのみで全ての問題が解決されるということはほとんどありません。
ましてや「正しさ」が、それだけで全ての人を納得させられるわけではないのです。
だからこそ僕は、納得できないという「感情」を、正しさの前で押さえ込むことはないと考えます。
これには「論理的で一貫性のある思考を行い(それによって感情を排し)対処すべきである」といったような反論もあるでしょう。
しかし僕はそれでもなお、正しさだけでは立ち行かない「納得できない」状況でこそ、それぞれが納得をするために、辛抱強く真摯に様々な人間の感情に向き合わなければならない場面は多くあると思います。
その無謀にも思える行動の必要性を少しでも理解してもらうために、次の章では、今回の話題が社会にもたらしたものの話をしていきます。
第二章 深まる社会の溝
①基本的人権の今
僕が今回の一連の話題を通して様々な人の意見などにも触れてもう一つ強く感じたのは、第一章で述べたような正しさに対する姿勢、そしてそれぞれの置かれた立場での違いがあるにも関わらず、それらを考慮することなく、伊是名さんの一連の行為に誰もが納得できるような唯一の正しさを求めたことによって、今回の件への受け止め方が肯定派と否定派の間に、かなり深い溝があるということでした。
どうしてそのような溝ができてしまったかを理解するためにはまず、本来ならば誰もが等しく手にしているはずの「人権」について考えなければなりません。
僕たちが暮らす日本という国の最高法規である日本国憲法の第11条には、次のように記されています。
「国民は、すべての基本的人権の享有を妨げられない。この憲法が国民に保障する基本的人権は、侵すことのできない永久の権利として、現在及び将来の国民に与へられる」
そしてその基本的人権はさらに
①自由権
②平等権
③社会権
④参政権
⑤請求権
など、社会生活におけるより多くの具体的な権利として明記されています。
さてここで一度、ここまで読んでくださった方には改めて考えてみてほしいのですが、自分がもっているはずのこれらの権利を、どのくらい自分の暮らす国(あるいは社会)が保証してくれていると感じているでしょうか。
きっとその答えには、かなりのばらつきがあるのではないかと思います。
例えば最近、日本では「義務を果たさないものが権利を主張するな」という意見をまるで当然のことのように考えている人たちが散見されるようになりましたが、そういう人たちは自分もまた「義務を果たさなければ人権は保障されない」と考えているのだろうということは、容易に想像できるかと思います。
ちなみに少し話は逸れますが、こういった考え方は実は本末転倒です。
憲法とは他の法律とは異なり「国の在り方の規範」ですから、まず国が国民の権利を保証した上で、その保証を継続的に可能とする国家維持のために、最低限度の国民としての義務があるというのが、本来の権利と義務の関係のはずです。
しかし今述べたように、そのように理解している人はどうも減り続けているようですし、その義務の一つである税金や国民年金などをそうした自分の権利のためだと考えている人は、さらに少なくなるのではないかと思います。(念のため補足しますが、その使い方への批判などは「別の話」になります)
逆に、社会全体の知識や経験、また技術などの不足から、そこに暮らす人たち(もちろんその中には僕も含まれている)の偏見に晒されたり行動を著しく制限され、自分自身やその身近な人たちの人権を蔑ろにされ続けてきたと強く感じていたのであれば、その変化は小さくとも、確実に自分たちの権利が保証されるようになってきていると感じているかもしれません。
つまり、理念上は誰にも等しく与えられているはずの人権であるにも関わらず、現代の社会状況においては、それぞれの人がそれぞれに置かれた環境の中で、自分にどの程度の人権が保障されているかという実感が、個人の「主観」によって大きく左右されているということになります。
そして、意識的にせよ無意識にせよ「自分の持つ権利が保証されている」という実感をどの程度持てているかということに対する一人ひとりの違いが、今回の一連の話において着目すべき点のひとつであり、その見え方の違いが、現代の日本社会に奇妙な現象を起こしているように思います。
その現象について、僕の考えを次に述べてみたいと思います。
②健常者と障害者の心理的な立場の逆転現象
少なくとも日本においては、日本国憲法が制定されて以降、先ほど示したように理念上は全ての国民に等しく基本的人権があることになりました。
そして憲法の公布とともに、この国は敗戦というどん底から、高度経済成長やバブル経済を経て、世界と肩を並べるような経済大国になっていきます。
その過程で、国民のほとんどが何かしらその発展の恩恵を受け、少なくとも敗戦当時と比べれば自分たちの基本的人権が保証されていくのを実感できたでしょうし、また国も国民に憲法に恥じない「人権の保障」の達成に向けて確実に前進していると考えたでしょう。
それでもなお「障害者」と呼ばれる人たちの人権は、ある意味では「ないこと」にされ続けていたという部分もまた間違いなくあったと思います。
しかし最近になってようやく、今回の件の中心にいる伊是名さんを含む「障害者」と呼ばれる人たちについては、これまでの社会の中で長らく基本的人権を守られてこなかったことを、現代日本社会が事実として認め始めているのだと思います。
だからこそこれまでの社会でなかったことにされてきた人権の偏りを少しでも解消するために、憲法として大きく掲げた理念のもと、偏りの大きな皺寄せを受けてきた障害者と呼ばれる人たちのため、2013年に「障害者差別解消法」が新たに成立したわけです。
ところがそうした流れがある一方で、同時に日本では別の大きな変化が進行していました。
敗戦以降、目まぐるしい経済発展を続けてきた日本ですが、90年代についにバブル崩壊という大きな停滞期を迎えます。ただ、それ以降も何度かの経済の停滞はありつつ、国としては何とか経済成長を続けてきました。
しかしその経済成長とは裏腹に、バブル崩壊を大きな転換点として、雇用形態の変化による生活の不安定化や経済格差の拡大、増税や社会保障の自己負担増などにより、自分の人権が保証されていることに疑問や不安を感じる人が確実に増えていったと考えられます。
さらに2000年代に突入すると、頻繁に「自己責任」という言葉が使われるようになり、ますます社会から個人が突き放されていくかのような流れが加速していきます。
こうした流れの中で今や日本では、権利とは保証されるものではなく、自己責任において勝ち得るものであるという認識の方が色濃くなってきているのは、先にも述べた通りです。
一方では、これまである意味で人権の埒外に放置されてきたマイノリティが次々とその人権を保証されていき、他方ではこれまで当然のように人権を享受してきた人たちの中では、その人権が脅かされあるいは奪われていくような感覚が増幅していく。
こうした二つの流れによって、今の日本社会では心理的あるいは主観的に「自分が社会から阻害されている」と感じている人や、さらに「マイノリティだけが優遇されている」と感じている人が、かなりの数に達しているように思います。
つまり、事実ベースではあくまで社会における格差の縮小であるにも関わらず、それが多くの人の中である種の「立場の逆転」が起きているような感覚へと変容しつつあるのではないかといつのが、僕の考えです。
そしてその感覚が今、この社会に溝を作り、さらにそれを深めているように思います。
③深まる溝の正体
今回の行為の一つの大きなポイントは「法の行使」にあることは第一章で述べました。
そして、今回の法の行使が「正しさ」の一つの具現化であり、その「正しさ」を法のみに求めるならば、さらに正しさによって主張し守りたいものが自身の「人権」であるならば、この章の最初で示したように、実はすでに憲法という最も重要な法を、その対象である「国」に対して行使さえすれば事足りるはずです。
しかし今回の件で行使されたのは憲法ではなく、その理念を(ある意味ではその「正しさ」を)実現できていないこの現代社会において新たに制定された「障害者差別解消法」であり、その対象もまた、本来であればその責任を第一に負うべき国ではなく、JRという、いうなれば僕たちや伊是名さんと同じ「国民」の側だったのです。
第一章の中で僕は、多くの人は自分が「法に守られている」と考えているし、だからこそ「法に触れない」生き方をしているという表現もしましたが、この章ではさらに、その感覚が多くの人の中で薄れつつあるのではないかということを示しました。
そんな中でJR行使された「障害者差別解消法」は、そうした不安を抱える多くの人にとって(あえてこういう言い方をしますが)「伊是名さん個人から私の人権を保証する義務を課せられた」ように感じてしまったのではないでしょうか。
障害者差別解消法があったからこそ、伊是名さんは法という「正しさ」を根拠に、今回のような行動をとることができました。
しかしそれは同時に、自分たちの基本的人権が法によって保証されていると実感できない人が増え続けている現代の日本社会では、そう言った人たちの間に障害者差別解消法よって「法を行使できる側」と「法に従う側」という、ある種の「権利の勾配」ができたという認識を強めてしまったという側面は無視できないと、僕は考えます。
もっと身も蓋もない言い方をすると、要するに「障害者だけずるい」という感情が、今回の件が社会を分断した大きな理由であり、そしてその「ずるい」という感情こそが、現代社会の様々な場所でいろいろな人と人の間で深まる溝の正体の一つなのです。
障害者差別解消法は、社会秩序を維持する仕組みとしてこれまでの分断を縮めるためのものであり、それは現代社会にとって必要なものだと思います。
それでもなお、今回の伊是名さんの行動が、ある部分において個々の「感情」への配慮を怠ったことで、その行動が「正しい」にも関わらず、むしろ社会全体の分断をより拡げてしまったという見方は、十分に可能だと思います。
誤解をしてほしくないのですが、だから伊是名さんの行動は「間違っていた」とか「障害者差別解消法はいらない」と言いたいわけではありません。
繰り返しますが、今回の伊是名さんの行動も、また障害者差別解消法に記されている理念も、僕は基本的に「正しい」と思っています。
僕がここでこうして、深まる溝の正体を明らかにしようと考えたのは、正しさはしばしば「反感をもって迎えられる」ということを少しでも感じてほしかったからです。
さらに誤解を恐れずに言うと「正しさを主張するだけでは、ただただ社会の分断を拡げてしまうだけだ」という意識を持つ必要性を、個人的には感じています。
最近になって僕は、まだまだ未成熟で理想とは程遠い現代において、一人ひとりが持っているこうした「正しさ」に対して抱く感情のグラデーションこそ「被差別」とは何かを考える上でとても重要ではないかと考えるようになってきました。
また同時に、個々の能力の違いや社会という仕組みの構造上の問題の解決を進めていくだけではなく、その中で生じる一人ひとりの様々な感情にも向き合っていくことが、様々な差別解消に止まらず、その先へと続く道標なのではないかと思い始めています。
そんな風に現代を見ている僕の目から考える「バリアフリー」について、次の章では述べていきたいと思います。
第三章 「バリアフリーな社会」を想像する
①社会の構造の変化と心理的受容のギャップ
第二章の最後で僕は、正しさを主張するだけではただただ社会の分断を拡げてしまうと述べました。
ではそもそも、社会に分断が起こり、人々の間に溝が深まることは「悪いこと」なのでしょうか。
その疑問に対して、今の僕は明確な回答はできませんが、これまで述べてきたことから言えることが一つだけあります。
それは、分断とは「理想と現実のギャップの可視化」だということです。
「理想に近付く」というのは裏を返せば、まだ理想に届かない「現実から遠ざかる」ことだからです。
僕たち一人ひとりの中に、自分の置かれた環境を元にした理想があるはずです。そしてその多種多様な理想を持つ個人が集まって「社会」を形成するとき、そこにはそれぞれの理想が混ざり合うようにして「理想的な社会」が立ち現れます。
人類の歴史とはある意味では、常に理想を追い求め、それを社会へと反映してきた歴史だとも言えるでしょう。
過去には、理想を社会に反映することができる人というのは非常に限られていましたが、そうした状況は長い歴史の中で徐々に改善され、現代ではこの世界に生まれた全ての人が、僕たちの生きる社会に対する理想を抱き、それを社会へと反映させる権利を(未だその影響力の差はあれ)持つようになりました。
こうして社会に参加する人が増えるにつれて、理想的な社会もまた、常に変化しながら多様な広がりを持つようになってきたのです。
しかしそれは同時に、他者の理想が否応なく自分の理想に介入してくることを意味します。
社会全体としては、間違いなく理想的な社会へと構造そのものが変化し続けていても、それを個人の主観で受け止めるとき、自分とは関係のないところで理想が離れていってしまうような感覚を持ってしまったり、誰かが理想に近づく姿を見て、自分だけが置き去りにされているように感じてしまうこともあるかもしれません。
他者の理想もまた自分の理想の一部であることを受け入れるためにはまず、自分の理想がどのようなものであるのかを把握しておかなければなりませんし、もし把握したとしても、それが実は社会全体の理想とは完全に合致しないということも起こり得ます(むしろ、ほとんどの場合は合致しないでしょう)。
多種多様な人が、同じ社会の中で生きているのですから、理想的な社会が自分の理想のみを十全に満たしてくれるということは、まずあり得ないのだと「納得する」必要もあるでしょう。
そうした過程の中では、社会全体が提示する価値観と自分の価値観の間で、何かしらのギャップが生じるであろうことは想像に難くないですし、それを受容して一人ひとりが変化するには、長い時間がかかるでしょう。
なので僕自身は、あくまで長期的な解決可能性を含めて考えた時には、分断そのものは一時的なものであり、単に悪いことだと全否定する必要はないと思っています。
問題は分断そのものではなく、その分断との向き合い方にこそあるのではないでしょうか。
②押し付けられる正義
SNSのような、誰もが気軽に意見を発信できて多くの人が自由にそれを知ることができる場では、一つの意見が拡散し多くの共感を得たり、また逆に一つの意見に否定的な意見が多く寄せられ、その声が支持されたりすることが頻繁に起こります。
今回も、伊是名さんの一連の行為が話題になるとすぐに、その行為が正しいか間違っているかという、ある種の「答え」を出そうと、誰もが躍起になっているように僕には見えました。
確かに、誰もがたった一つの答えを同じように理解して正しいのだと思うことができれば、この世界からは争いも諍いもなくなるでしょう。
しかし、先ほども述べたように、この社会はそれほど単純なものではありません。
それでも実際に「分断」を目にしたとき、多くの人はどこかでその早期解決を望み、それぞれに「自分の中の正義」を語り始め、そしてしばしば、誰かに自分の中の正義を押しつけてしまうことになります。
例えば、どこかで戦争が起きたとしましょう。そうするときっと「戦争はすぐにやめるべきだ」という正義の声は間違いなく出るでしょう。その声に対して「悪を滅ぼすための戦争」の正義を語る人も出てくるかもしれません。
ただ僕は「戦争は悪であり、戦争をなくすことが正義である」という考え方も「悪から正義を守るために戦争をする」という考え方も、それらは互いに表裏一体であり大差ないと僕は考えます。
どちらもそこにはもはや「自分自身の考えや理想」がなく、そこにいるはずの自分自身がそれぞれの正義に飲み込まれ見えなくなってしまっていると思うからです。
こういったことは、戦争という極端な例でのみ起こることではなく、極端な言い方をすれば、些細な価値観の違いからでも日常的に起こり得ます。
そうして正義に飲み込まれた人は、相手の変化ばかりを望み、相手の考えを理解しようともせず、自分の考えとの齟齬を指摘することばかりで、相手の理解や納得を引き出すための労力すら割かず、ただ否定することで正義との同調しか許容できなくなります。
もはや誰の理想だったのかも分からなくなってしまった曖昧模糊とした掴みどころのない形骸化した正義に、自分を仮託することでその責任の所在を有耶無耶にし、無責任に押し付けているという自覚ができなくなり、時に相手を傷付けてもそれに気づくことすらできません。
そして僕は、そういった正義の押し付けが嫌いです。その正義の持つ正当性や論理性の如何に関わらず、必然的に他者を内包する社会で生きている以上、どうしても切り離すことができないはずの相手の現状や心情を完全に排除してしまっていると、僕自身が感じてしまうからです。
だからといって、僕にはそうした正義を語ることを止める権利なんてもちろんありません。僕が嫌いだと言った程度で止めるも止めないも相手次第だと思いますし、そもそも別に止めたいから言っているわけでもありません。僕個人としては、その人が何を考えどのように行動するのかの最終的な決定権とその結果起こることの責任は、本人が負えばいいと思うだけです。
(その意味では、法とは「社会的に負わされる責任の明文化」だと言えるかもしれません)
ただ同様に、僕にはそういった正義の押し付けを嫌うことや、時にそれを拒否する権利がありますし、それもまた誰にでも認められているはずです。
そうして拒否するとこであえ分断が拡がることになっても、僕はそれもまたある意味では、理想的な社会への変化の過程だと考えていることは先ほど述べました。
だから僕は、ここでこれ以上「何が正しい」かや「どうすべきなのか」を語るつもりはありません。なぜなら、それを決めるのは、これを読んでくれている「あなた自身」の権利だと考えるからです。
ただ僕は、そうして一人ひとりが「自分自身の責任」に立ち返り向き合い続けることが、社会全体がバリアフリーへと向かうために誰もができることなのではないかと考えているという話を、あと少しだけ続けます。
③「心の凹凸」という見えない障壁とバリアフリー
僕たちは一人ひとりそれぞれに違った肉体を持って生まれ、ありとあらゆる多種多様な環境の中で育ちます。
そうした中で育まれる僕たちの「心」の形もまた、一つとして同じにはなりません。
つまり僕たちはそもそも、一人ひとりの中に心という凹凸を持っているのです。
バリアフリーというと、日本ではまだまだ物理的な障害をなくすことという認識を持っている人が多いかもしれませんが、今では様々な制度上の不備や情報格差、偏見や差別の解消も含めて考えられるようになってきています。
逆に言えば、ありとあらゆることにバリアフリーが求められるようになってきたことによって、誰もが同じ価値観を持たなければならないかのような誤解が生じているようにも感じます。
だからこそ最近では、誰もが唯一の「正しさ」を示そうと躍起になっているように、僕の目には映るのです。
しかし僕は何度も繰り返し述べているように、正しさには限界があると思っていますし、だからこそ唯一の正しさなどはないだろうと考えています。
大事なことは、いずれ唯一の正しさを誰もが持ち、それぞれの心にある凹凸をなくすことではなく、それぞれの心に凹凸があることを自覚した上で、それが「障壁にならない」ようにしていくことだと、僕は思います。
それが「バリアフリー」という考え方の本質のはずです。
だからと言って僕はここで「お互いの価値観を認め合うべきだ」という、ありきたりの綺麗事を並べるつもりはありません。
先ほども述べたように、僕だって嫌いなものは嫌いだし、受け入れたくないものまで受け入れようとも思いません。
ただそれでも、少なくともそういった価値観そのものを全否定し消し去ろうとすることだけはしたくないと思っています。
価値観そのものを受け入れることはできなくても、そこにあるものはあるという「事実」を受け入れることはできるはずですし、そうした受け止め方をすることで、少なくとも両者の間に広がる溝を埋める「可能性」だけは残ります。
どちらか一方が消えてしまえば、確かにそこに分断はなくなるかもしれませんが、僕はそれは同時にこの社会の多様性と可能性を、大袈裟な表現をするならば、この世界の「豊かさ」を放棄してしまうことになるような気がしてならないのです。
そして実際に、自分には受け入れ難く理解不能な価値観であっても、その存在が「ある」という事実を社会的に認めることは、長い時間をかけてゆっくりとではあっても、結果的に社会全体の変化を推し進めることになると、僕は思うのです。
④溝を埋める人たち
今回の伊是名さんもそうでしたが、時に過激に正しさを主張しないと社会は変わっていかない」という意見があります。
あえて大きな反発が起こり、社会を分断することになっても、それを覚悟の上で理想に近づけるという点では、誰かがやらなくてはならないことだと言えるかもしれません。
ただ、忘れてはいけないのは「そういった行為そのものが社会を変えたわけではない」ということだと思います。
そういった行為は、社会全体を理想に近付けるきっかけであることは間違いないと僕は考えていますし、その意味では正しい行為であることも否定はしませんが、それだけですぐに社会が変わるなら、僕たちはこんなに悩むこともなければ、反目し合うこともありません。
しかし、この章で述べてきたように、自分の日常を(あるいは「理想」や「正義」を)見つめ直す必要があるような社会構造の変化を受け入れていくことは、多くの人にとって容易ではなく、とても長い時間が必要なのです。
過激な行為によって生じた分断をそのままにしておけば、やがてその分断を生み出した正しさもまた孤立することになり、時にその過激さを増し、場合によってはそのまま社会に受け入れられることすらなく、静かに消えてしまうかもしれません。
そのように分断を分断で終わらせず、それが理想的な社会との間にある溝なのだと受け入れられていくためには、誰かがその溝を埋めなければなりません。
そしてそれは多くの場合、分断を拡げた本人ではなく、その理想にただ賞賛を送るだけの人たちでもなく、現実と理想の間にあるギャップの中で悩みながら日々の暮らしを守り、大きな分断を引き起こす理想の向かう先に一定の理解を持ち、自分の言葉で自分の立場から、少しでも現実を理想に近づけようとしている、名も知れぬ人たちによって行われます。
今回もそれは同じでした。
そういう人たちが、多くの批判の声を真摯に受け止め、一人でも多くの人の納得を引き出そうとし、根気強く分断に向き合い続けているからこそ、長い時間をかけて分断によって生じた溝が少しずつ埋まっていき、やがて社会の構造が変化するのだと思います。
もちろん、革命や戦争など歴史に残るような劇的な変化もありますが、当然それとて一夜にして起きたわけではありません。
理想的な社会を目指すときには、現状を打ち破ろうとする人や、理想の向かう先を示そうとする人にばかり注目が集まりますが、僕は本当の意味で社会を変えてきた、そうした無数の人たちにこそ、心から敬意を抱きます。
どんなときでも、誰かが誰かと向き合い、時に小さな「納得」が生まれ、一人ひとりの心の凹凸に小さな橋が掛かり、やがてそれが少しずつ繋がることで、分断で生じた大きな溝を埋めていき、僕たちは少しずつ理想的な社会に近づいていくのではないでしょうか。
⑤今回のケースにおける別の「バリアフリー」の形を考えてみる
この章の最後に、あえて伊是名さんの求める(もしくは世間一般にイメージされている)バリアフリーな社会とは別の形を、僕なりに考えてみます。
例えば、全ての駅に「電動車椅子の無料貸し出し」があったとしたらどうでしょう。
どんなに小さな駅であっても、その駅を利用する人が自由に使える標準的な機能の電動車椅子が改札の外に設置してあり、それを使って駅の外を自由に移動できるのであれば、ホームから改札までに車椅子では移動できないような段差があっても、車椅子ごと運ぶ必要はなくなります。利用するときには、ホームに自分が普段利用している車椅子を安全に保管しておけるスペースも用意しておきます。
これなら、伊是名さんのように介助者が同行していれば、ご本人もブログ内で「ヘルパーさんに抱っこしてもらう」と書いておられたことからも、「駅員の動員は必要ありませんし、仮に一人での行動だとしても、ホームから改札までの移動に必要な労力や設備はかなり減らせるかと思います。少なくとも、全国にまだまだ多くあるすべての駅舎にエレベーターなどを設置するという全面的な改修を行うよりははるかに安価な設備投資で済むでしょう。
もちろん、僕に伊是名さんの詳しい容態は分かりませんが、少なくともご本人が現在使っている車椅子でなければならないという印象は見受けられませんでした。それならば、今回の伊是名さんのように、その場所の観光が目的であれば、こういった配慮でも大きな支障は出ないのではないでしょうか。
もちろん、このような案の細かい問題点を指摘しようとすればいくらでもできることくらいは、僕にも分かります。しかし僕がここで示したかったのは、最善の方法でも解決策でも、ましてや「唯一の正しさ」でもありません。
それでも僕は、自分もまた社会の一員として、そしてその社会を理想に近づける可能性の一端を担っているという責任を果たすために「自分の頭で考え続ける」という姿勢を持つ必要があるような気がしたし、それが今回の一連の話の中で何かしらの意味を持つかもしれないと考え、こうして拙い自分の思い描いた社会のあり方を示しておく必要があると考えて、この章の最後を、あえてこのような形で締めくくろうと考えました。
当然ですが、いずれは全ての駅にエレベーターなどが設置されるような未来もあるかもしれませんし、車椅子などの移動手段の方が改良され、段差などそもそも問題にならなくなるかもしれません。
社会が変化し続けていることを考えれば、可能性は無限にあるはずです。ただそれは「今すぐには変わらない」し、どのように変わっていくのかも「誰にもわからない」のです。
これらのことを踏まえて、長々と続けてきた「バリアフリーの先に見える社会」について、最後にまとめたいと思います。
第四章 矛盾する現代社会
①人権の衝突
僕はこれまで繰り返し、伊是名さんの主張は基本的に「正しい」と述べてきました。
確かに、車椅子ユーザーの公共交通機関での移動は、今でもまだ制約を受けていることは事実ですし、それが解消されていくことは、僕たちの社会が理想に近づくことだと思います。
ただ、車椅子ユーザーにとって障壁となり得る凹凸の中には、例えば視覚障害者を安全に誘導するための点字ブロックなども含まれてしまうことになるといったことが、すでにこの社会でも起きています。
つまり、ある特定の視点から見た「人権」も、そればかりを優先していくと、その先で他者の権利を侵害する可能性は常にあり、そのような場合には両者間の権利と利益を最大限損なわないような「妥協点を探る」必要が出てくる場合もあるのです。
(ちなみに点字ブロックについては、より凹凸の小さなものに置き換えるなどの対策が導入されています)
これまでの社会では、そもそも一人ひとりが持っている人権自体に大きな開きがあり、これまで権利を持っていなかった人たちが主張する「正しさ」を受け入れることは、そのまま社会全体が理想に近づいていくことと、ほぼ同じ意味を持っていました。
しかし、全ての人に人権があることを理念上は認めることになった社会においては、ある立場では「正しい」といえる主張が、別の立場の人の人権と衝突することが増えてきているのです。
あえて極端な表現をするならば、これまでの人類の長い歴史においては「一部の人間の正しさで、その他大勢の人権を規定する社会」であったのに対し、現代社会は「時に相容れない正しさを突き合わせて、お互いの人権をどのように共有するか」という段階に突入しつつあるのかもしれません。
その過程では、きっといくつもの「正しさ」が衝突することでしょう。
そして、今のままではこうした傾向は今後ますます強くなるだろうと、個人的には考えています。
②正しさの暴走
伊是名さんの書いたブログは多くの批判を受け、彼女はすぐに、批判を受けた点についての補足をブログに書きました。
その冒頭の一節で、彼女はこのように綴っています。
障害があっても、当たり前ですが、電車に乗ったり、買い物に行ったり、旅行に行きたいのです。
この一文が、たぶん彼女の行動の原点なのだと僕は思います。そしてそれは、コラムニストであり活動家である伊是名夏子ではなく、一人の人間として誰もが抱く素朴で素直な欲求であり、当たり前の「感情」であると僕には思えました。
しかし、彼女のように障害を持って生まれると、そうした感情を抱くことさえも、時に「贅沢」だと言われ「わがまま」とされ、感情をいくら吐露しても聞く耳さえ持ってもらえないという時代が長く続いてきました。
あえてこういう言い方をしますが、今なお僕たちの社会は「弱者として生まれたのだから弱者として生きろ」という通念があり、それを完全に拭い去ることができていないと感じます。
例えば、最近はよく「ありのままの自分」を受け入れるとか「生きていられることに感謝する」という考え方を目にするようになりました。
それらは、苛烈な競争原理主義社会あるいは過度の評価主義的社会において、その価値観に疑問を呈し、そこからの脱却を目指すのであれば指針の一つになり得る思います。
ただ、そうした考え方も、今回の伊是名さんのような身体障害者に対して他者が語るとき、それは「自由に移動できないのは仕方ないと受け入れなさい」であり「そんな自分に手を差し伸べてもらえることに感謝しなさい」という、ある種の「押し付け」になり得ます。
さらにこういったことは、何も障害者に限ったことではありません。
最近は何かと「ハラスメント」という概念が幅を利かせていますが、それも元を辿れば、ただ立場の不均衡の問題だけではなく、それによって生じる「嫌悪感」や「圧迫感」という感情を、感情的だという理由から、弱者の側からいくら訴えても聞き入れてもらえなかったという点を無視することはできないはずです。
あらゆる場面で、こうしたマジョリティ側の弱者側が抱く感情に対する配慮の欠如から自分自身を守るために(社会的)弱者が取ることができる行動は、必然的に自分の「正しさ」を主張することによって、弱者側の(あるいは自分自身の)「人権を勝ち取る」しかないという流れが、今なお続いていると言えるでしょう。
しかしそれは一方で、現代日本社会においては、主張の根拠となる価値観が「正しい」とされないと、その存在すら否定されかねないような世間の空気なってきているようにも、僕には感じられます。
その結果、もはや多くの人の中で「人権とは何か」ということを考えることなく、とにかく「正しいか否か」ばかりが議論され、それぞれの正しさで相手を牽制し、時にはお互いに相手を叩き潰そうとしてしまっているように、僕の目には映ります。
先ほど僕は、誰もが等しく人権を持つという社会になり、それぞれの人権同士が衝突するようになったと述べました。
だからこそ、未だに弱者側である人たちがその人権を求めることを「他者の人権を認めることは、自分に認められている人権を制限される」ことだと感じてしまっているからこそだと思うのです。
そしてそれは、ある意味では間違いではないとも思います。
しかしそうして「正しさ」にとらわれるあまり、僕たちは、本来なら誰もが等しく持っているはずの「人権」の意味を見失ってしまっているということの表れなのではないかとも思います。
③公共の福祉と人権
僕がこうしてこれまでに述べてきたことから言えることは、どれだけ社会が進歩し発展しても「誰もが完全に満足できる社会にはならない」だろうという、ある意味では残念な結論です。
しかしそれは、必ずしも全ての人が幸せに暮らすことができないということと同じではないと、僕は思います。
実はそもそも、人権と人権が衝突することは「人権とは何か」を考えていく過程ですでに織り込み済みであり、日本国憲法の中にも「公共の福祉」という概念が併記されています。
【公共の福祉】
基本的人権と公共の福祉に関する基礎資料
公共の福祉については、現在も様々な考え方があり、またその在り方についての議論は今なお続いていて、社会と個人の(あるいは人権の)関係性もまた変化し続けています。
そうして変化し続けている社会の中で生きている僕たちは当然の帰結として、一人ひとりが違った価値観を持つことになりますが、本来であればそこに優劣はないはずです。
また、これまで述べてきたように、絶えず変化しつづつける社会の中で獲得したその価値観に従って、僕たちは様々な「感情」を抱きます。
そうした感情の中には、楽しいとか嬉しいとか、安らぎとか愛おしいというものばかりではなく、憎しみであったり怒りや嫉妬なども、もちろん含まれているはずです。
しかし例えば、ある人が誰かを殺したいほど憎むことと、実際に殺してしまうことでは、全く意味が異なります。
公共の福祉に反しないとは、ここで「誰かを殺したいほど憎んではいけない」ということではなく、例え誰かを殺したいほど憎んだとしても「殺さない選択をする」ことなのではないでしょうか。
自分の中に湧き上がる感情を完全に消し去ることも、それを全否定することも、誰にもできないと僕は思います。
けれども、そうした感情をどのような形で社会に反映させるかは、自分で責任を持つことができるようになるのではないかとも思っています。
逆に言えば、社会もまたそこに暮らす一人ひとりに対して、そういった責任を持てるような生き方ができる環境を保障する必要があるでしょう。
このように考えていくと、人権とは「自分が抱く感情を否定せずに生きられること」なのかもしれないというのが、現在の僕の考え方の基礎になっています。
自分の思い描く理想や欲求の全てが叶えられることはなくとも、そうした様々な感情を抱く自分が社会の中でその存在を受け入れられていると感じられること、あるいはどんな自分であってもこの社会の中で「生きている」という実感を一人ひとりが取り戻すことに、現代社会に暮らす僕たちは、もう一度しっかりと向き合う必要があるのだと思います。
そして僕たちは、この先も人権とは何かを考え続けながら、自分自身を含めた多くの人が生きるこの社会の在り方と向き合い続ける必要があるのです。
僕は、その先にきっと誰もが幸せを実感できる社会が待っていると信じています。
④正しさの矛先
今回の伊是名さんの行動に対しても、彼女個人に向けて多くの彼女とは異なる「正しさ」の矛先が向けられました。
しかし、それによって引き起こされたことは、彼女がそれぞれから向けられた正しさを理解したり、行動を変化させたりすることではなく、むしろお互いの分断を拡げただけでした。
これまで僕の知ることができる範囲だけでも同じようなことが起きてきましたし、僕自身も何度となくその矛先を向けられてきましたが、少なくとも僕自身に限って言えば、そうして個人に向けられた正しさがその人を根本的に変化させたという場面に、ほとんど出会ったことがありません(僕自身に限っていえば「ない」かもしれません)。
むしろ僕は「正しさでは人を変えることなどできない」のではないかとすら、今では考えています。
だからといって、決して正しさが無意味だと言うつもりもありません。
僕は、正しさの矛先は「社会に向ける」ことが大事なのではないかと考えています。つまり、正しさでは人は簡単に変えられないけれど「社会は変えられる」ということです。
最近の変化だけを見ても、分煙の推進やハラスメントという概念の浸透、そしてもちろん様々な施設のバリアフリー化も、そこには含まれるでしょう。
そう考えると、今回の伊是名さんの行動もまた、彼女の考える正しさの矛先を「社会に向けた」ものだと言えると思います。
しかしながら、それを少なくない人たちが「自分に向けられた」と勘違いし(そう感じてしまう理由は第二章で述べています)、意趣返しのように自分の持つ正しさを伊是名さん個人に向けてしまったのです。
ここまで読んでくださった皆さんには少し考えてみてほしいのですが、誰かに正しさの矛先を向けるとき、本当に伝えたいことは「正しさ」なのでしょうか。
僕には、そうではないように思えてならないのです。
僕たちはそれぞれ自分自身の中に正しさを持ち、それを指針として生きています。ただ、それぞれの正しさは一つとして同じではなく、時に相容れないこともあると述べてきました。
その前提に立って、そうした相容れない正しさを持つ誰かに触れたときに自分の正しさを押し通したくなる理由を振り返ってみると、実は自分の中に湧いてくることを止められない違和感や不快感などの「感情」を消し去りたいというのが、正しさを押し付ける本当の理由なのではないでしょうか。
つまり「相手を正したい」のではなく、相手が自分と同じ正しさを持てば「自分が嫌な思いをせずに済む」からなのではないでしょうか。
もしそうだとするならば、取るべき手段は変わってくるはずです。
そしてその手段とは、相手にきちんと「自分の感情を伝えようとする」ことだと、僕は思います。
個人の正しさに個人の正しさをぶつけても、結局のところそれはまるで「全てを貫く矛」と「全てを弾く盾」だとそれぞれが信じているもの同士の不毛な争いにしかなりません。
しかし、お互いの感情を、他の誰でもない「自分自身から湧き上がるもの」を伝えることができれば、そこに相手が受け入れられる可能性が残ると思うのです。
逆に言えば、個人と個人の間でやりとりできるのは精々「感情」くらいであり、そうして一人ひとりの相互の小さな「納得」を積み重ねていくことくらいでしかないのです。
もちろん簡単に納得できないこともたくさんあるでしょうし、受け入れられないこともあるでしょう。
それでも、そうしたある種の誠実な感情のやりとりこそが、この現代社会において、いつのまにか正しさしか頼るものがなくなってしまっている僕たちが見失い忘れてしまっている「一人の人間同士としての他者との向き合い方」の根本なのだと、僕は思うのです。
そしてそれは、唯一完璧な正しさもなく、完全な理解の一致もできない、それでも同時に僕たちは同じ社会の中に生きながら異なる理想を追い求める「個人」として、お互いの尊厳と人権を認め合うために、改めて立ち戻る必要のある出発点なのかもしれません。
第五章 正しさに感情を殺されないために
①みんなちがって あたりまえ
人権や差別の話をすると、金子みすゞ の童謡集「わたしと小鳥とすずと」の中の一節にある「みんなちがって みんないい」や、SMAPの「世界に一つだけの花」の中で出てくる「もともと特別なオンリーワン」という歌詞を持ち出してくる人たちが、僕は以前からどこか苦手でした。
なぜそのように感じるのかと頭の片隅にずっと引っかかっていたのですが、最近になってようやくその理由が少し分かってきました。
なぜなら少なくとも僕には、それらを気軽に使う人たちが、それぞれの人が抱えている個々の違いを「良いこと」とだと決めつけていると感じてしまうからです。
しかし(原子レベルの話はさておき)この世界に存在するあらゆるものは、基本的に一つとして同じものはありません。
つまり「違うものは違う」という、ただそれだけのことなのです。
そしてそれはもちろん、人間においても変わりません。自分が持って生まれたものは全ての他者と違うのが当然であって、そこに良いも悪いもないはずです。
違って当然なのですから、その違いに対する他者からの評価も、究極的には無意味だということです。
しかし同時に個々の違いは、私たちの中に様々な「感情」を抱かせるのもまた事実です。そして、その感情は当然ながら前向きなものばかりではありません。
そうした前向きではない感情の中でも、特に「不快」という感情は(人間以外の生物が感じるそれが、感情と呼べるものであるかどうかは別として)極論すれば「自身の生命を脅かす存在の認知」であると考えたとき、その不快感を排除しようとすることもまた、ある意味ではそれぞれに備わった本能と言えるかもしれません。
それでもなお、僕がこれまで述べてきたことから、人類と他のあらゆる生物を隔てるものがあるとするならば、僕たち人類は「社会」という仕組みを用いて、個々の不快感を「対象を排除することなく解消する」ことを究極の目的として進歩し続けてきた点にあるはずです。
だからこそ僕は「正しさ」を求めることを否定はしないし、どんな正しさも「社会に対して」向けられる必要があると考えているのです。
あらゆる「違い」が否応もなく避け難く、そして「無価値」に僕たち一人ひとりに備わっているからこそ、僕にはそれをただ個々で処理しようとする(≒排除しようとする)だけでは、人間であることの意味が失われてしまうように思えてなりません。
しかし、近年では急激に社会そのものに対する信用が失われつつあり、特に僕たちの暮らす日本においては社会について語ることすら、ままならなくなってきています。
それによって、社会の持つ「不快の解消」が機能不全に陥り、本来であれば社会に向けられるはずの正しさもまたここにきて、再び「個人」に対して向けられるようになり、いつの間にか「正しさに殺される」恐怖を肌で感じるまでになっているように感じられることさえあります。
そしてこうした変化が現代社会において、これまでとは違った形の差別を生み出しているのではないでしょうか。
②正しさが生み出す差別
近年まで、ほとんどの差別は社会という仕組みによって生み出されてきました。
ただそれは(皮肉なことではあるけれど)、社会という仕組みがある意味ではそこに暮らす人々の価値観の決定に対して機能していたことを示すものでもあります。
だからこそ、被差別者側もまた、差別は「社会の問題」であると考え、差別の解消はほとんどの場合、大きな社会の変革とともに行われてきました。
これまでの差別とは基本的に、富や知識や情報など、あらゆるものの不均衡によって生じてきた側面があり、それゆえに社会構造の変革によってそれらの不均衡を取り除くことを、人類の歴史もまた目指してきました。
そして未だに、そのような社会構造上の問題点はいくつも残されており、社会的な変革は今後も続いていくことは間違い無いでしょう。
しかし一方で、大きな社会の変革を通して、人権という概念が広く一般的に認識されるようになった現代においては、個人と社会の関係性を変容させてきたのは、これまで述べてきた通りです。
つまり、これまで社会に向けて正しさを発露することによって改善されてきたことが、ここにきて「他者の利益(あるいは「人権」そのもの)と相反する」ようになってきた結果、必ずしもそれぞれが望む変革が起こりにくくなってきているのです。
それによって現代では、自分の考える正しさと似た正しさを持つもの同士が寄り集まり、その正しさと相容れない正しさを持つ個人やあるいは集団に対して、社会を通さず直接的に正しさを振るうような事例が増えてきていると感じます。
そのようにして寄り集まった正しさは、社会というフィルターを通すことがほとんどなくなるため、結果的にそこに集まった人たちの「感情」に溶け込み、やがてそれぞれの正しさがより直接的な感情である「排除」のための論理として形成されていきます。
例えば様々な「ヘイト」などは、これまでの歴史上の人種差別などとは根本的にその構造が異なり、社会通念などによる無知や無関心から生じるのではなく、個々人の感情が情報を通じて寄り集まること、つまり同じ感情を抱く人がいるという情報を「知る」ことによって、それが「正しさ」となり得る(あるいは正しさだと錯覚してしまう)だけの情報の「偏在」によって生じた新たな差別の形なのではないかと、僕は考えます。
そしてヘイトのような分かりやすいものばかりではなく、各々の抱えた感情を正しさによって糊塗した大小様々な排他的な(つまりは「差別的」な)クラスタが、無数に現れ始めているように思います。
こうして現代に現れた新しい差別は、社会との関係性が希薄であるがゆえに、社会の変革によって解消することは非常に困難だと考えられます。
このようなこれまでに類を見ない時代に足を踏み入れた僕たちは、そうした新たな問題にどのように向き合えばよいのかを、さらに考えてみたいと思います。
③「嫌う」という責任
そもそも、現代社会の中で暮らしている僕たちは、何かを「嫌う」ということを出来るだけ避けようとします。
あるいは、何かを嫌うことを「悪いこと」だと考えていると言えるかもしれません。
身近なところでは「好き嫌いはいけない」とか「みんな仲良く」などは、そのこと自体を疑うことすらない人が多くいます。
一体それは、なぜなのでしょうか。
例えば「好き嫌いをせず食べる」というのは、そもそもの大きな要因として、人類の歴史上、食べ物が余るほど生産できるようになったのはごく近年であり(もちろん今でも世界規模で見れば大きな偏りはある)、常に食べるものが不足しているのが常態だったときには、生きるためには好き嫌いなど言っていられなかったからだいう側面はあったでしょう。
そしてこうした側面は「みんな仲良く」にも共通しているところがあると思います。
総個体数が少ない種では、例えば相手を選り好みをすることは全体の種の保存にとってマイナスに働く可能性が高くなるような状況が何度もおとずれたことでしょう。
つまり「好き嫌いをせずに食べる」も「みんな仲良く」も、人類全体としてのある種の生存戦略だったのだと思います。
そして、その生存戦略を効率よく人類全体に広めるために、いつしか人類は何かを嫌うことを「悪いこと」であると考えるようになったのではないでしょうか。
人間にしかない特徴の一つとして、この世界で直接的に手を触れることのできない「概念」を生み出し、それを使うことができるということがあります。
そうした形のない概念の代表的なものが「悪」です。
つまり人類は「悪」という概念を巧みに使うことによって(あるいは自分たちを騙すことによって)、自分たちの行動を制限し、人類全体の種の保存を行なっていたとも考えられるのです。
こうした中で、何かを嫌うということもまた、悪という概念の中に取り込まれていったと考えられます。
しかしながら、感情とは個々の中に自然に際限なく溢れ出てくるものでもあります。何かを嫌いだと感じることも、当然ながら避けられません。
にも関わらず、悪という概念に取り込まれてしまった感情(それは「嫌い」に限りません)は、本人にとってその意味を問われることすらなく、他者から批判されることになります。
そしてそれは裏を返すと、そうした批判を避けるために「嫌っていることを他者にさとられないようにする」ことや「何かを嫌っているという自覚を持たないようにする」ことを(半ば世間から)強いられるようになっているとすら感じることが、ここ最近はさらに増えてきているようにも思います。
こうして少なくない人たちが、自分が何かを嫌っているという自覚することが難しくなってしまい、その結果、自分の抱いた不快感の解消を他者のみに求めることになります。
しかし、何を嫌うかは先ほどから繰り返しているように、本来であれば誰しもが抱く自然な感情のひとつであり、つまりそれは自分とは切り離せない「個性」であるはずです。
つまり、何かを嫌うことは基本的には、あくまでも自分自身の問題であり、そうであるならば、その時に生じる不快感もまた、基本的には自分自身で引き受けるべきものです。
究極を言えば、自分が生きていく中で「個性を尊重する」ことが自分自身にとって本当に重要だと考えるならば、何を嫌うかも「自分自身で決めることができる」はずであり(もちろん、生まれ持った体質その他で避けようがない場合は除く)、一人ひとりにそのことに向き合っていく責任があるのです。
そしてこれからの時代、僕はもっと「嫌う」ということを前向きに(あるいは積極的に)、自分と他者との関係性の一つとして受け止めていく必要があるのではないかと考えています。
なぜ嫌うのかを考え、嫌う対象のことを知り、嫌い続けるのか否かや、どういった距離感で接するのかも含め、より多くのことを自分自身で選択し続けていくことが、それぞれの人権を尊重し合うための大切なステップになることでしょう。
④正しさを振るうとき、正しさを振われるとき
人類は自分たちの生存戦略として、他の種にはない(と考えられる)概念を使い、自身の生存を脅かすものを次々と「悪」とすることで、それを用いて、自分自身だけでなく他者をも制御する術を手に入れました。
そうしてさらには生み出された悪の対立概念として、またそれらを補強するものとしての「正義」が生まれ、やがて正義は、悪そのものよりもさらに効率よく他者をコントロールするために使われるようになっていきます。
自分の中にある悪なるものに向き合うよりも、自分の中にある悪から目を逸らし、自身の望む姿を目指し続けることの方が、ずっと楽だからです。
そうした過程を経ていくうちに、種全体の生存という本来の目的が失われ、ただ「正しくあること」だけを追い求めるようになっていきます。
あるいはそれがさらに進み、先ほど述べたように本来であれば自分の個性から生み出されているはずの不快感すらも、現代では「悪」によるものだとしか認識できなくなってしまっているように感じることもあります。
こうして「何が正義で、何が悪か」や「何が正しくて、何が間違いか」という概念同士をぶつけ合うとき、そこにはもはや個人はいなくなってしまうのです。
繰り返しになりますが、僕は社会という人類全体を考えるときに、ある程度の正しさや悪という概念の必要性を否定するものではありません。
ただ、戦争という分かりやすい例を挙げるまでもなく、正義と悪いう概念だけに捉われると、最悪の場合それは個人の命すら奪うという結果をもたらしてしまうこともまた、揺るがない事実なのです。
同じことの繰り返しばかりになりますが、一人ひとりに個性があるということは、人はお互いに完全には自分の感じた感覚を他の誰かと共有することはできないということでもあります。
完全な共有ができないからこそ、個人と個人の間でのやり取りにおいては、お互いの感情を丁寧に扱うことが重要になります。
なぜなら、そのことを失念して正しさという概念に自分を委ねるとき、人は他者の痛みに無頓着になってしまうからです。
だから、誰かに正しさを振るいたいと思ったときにはまず、自分の感情に目を向けてみてください。本当に「正しさが必要な場面なのか」を、よく考えてみてください。
少なくとも僕は、一部の例外(科学的あるいは法的、または誤字などの単純なミスなど)を除いて、基本的に正しさとは「ありたい自分」を社会に対して表明するためのものであり、他者の「間違いを指摘する」ためにあるのではなく、ましてや自分の意見を押し通したり、自身の中の感情の消化のために使うべきではないと考えていることは、この文章の中で何度も述べてきました。
だからこそ僕は、自分にとって「何が正しいか」あるいは「どちらが正しいか」ばかりを考えるのではなく、お互いの中にそれぞれの正しさがあることを認めた上で、そこから生じる相手の感情を可能な限り受け止め、納得できる他者との妥協点がどこにあるのかを、社会という仕組みを通して探ろうとする姿勢がますます重要になってくるだろうと思っています。
⑤「問い続ける」という選択肢
これまで僕たちが当たり前のように考えてきた、何が正しく何が間違っているかを決めるという考え方で常に他者と向き合うのであれば、様々な物事について、あらゆる角度から検証したり徹底的に討論を行うなど、他者に働きかけることを欠かすことはできません。
そのようにして、あらゆる考え方を社会の中でじ篩にかけ、ただ一つ残った価値観こそが「正しさ」としての意味を持つからです。
そして確かにそのような過程を経て、人類は様々な正しさを獲得してきました。
しかし、いくら正しさを見つけても苦悩が消えないこの世界で、いつの間にか僕たちは、さらなる正しさを求めることを焦り過ぎているように思います。
人類は、本当に長い時間をかけて今の社会を作り上げてきました。
僕の目には、多くの人がそれを失念し、性急に独りよがりな正しさを社会を通さずに押し付け合い、それでも答えが出ないことに、さらに苛立ちを深めてしまっているように映ります。
僕たちにはそれぞれ「ありたい自分」になろうとする権利を持っています。
それは間違いなく、あなたにとっての「正しさ」なのだと思います。
だからそ僕たちは、その一つひとつの正しさを、しっかりと社会という仕組みを通して問いかけ、長い時間をかけてこの社会が(あるいは人類が)変化することを待つという選択肢を見失ってはいないでしょうか。
何かを変えることを期待して行動することばかりでは、何も変わらなかったときに、その反動として大きな絶望感をもたらします。
その絶望感が正しさと歪に結びついたときには、先ほどから何度も述べているように、衝動的な攻撃性へと転化してしまうことすらあります。
けれど、問い続けることでは、そのようなことはまず起こりません。
なぜなら、それはあくまで変化のための種を蒔き続けることであり、その結果は時の流れとともに緩やかに社会に反映されていくものだからです。
そしてそれは、社会に限ったことではありません。
個人に対しても、性急な変化を求めて正解を押し付けようとせず、まずそれぞれの感情に真摯に向き合うことで、相互に重なり合う心の中の土壌を作った上で、相手の正しさと自分の正しさの間に「問い」を置くことによって、相手の中に新たな考え方や視点が育つように種を蒔くことができるのではないでしょうか。
もちろん、そうして蒔いた種が全て思い通りに育つわけではないでしょう。
しかしもしかしたら、そういったことも受け入れて初めて、僕たちは「多様性のある社会」に足を踏み入れたと言えるのではないかと思います。
時短が持て囃される現代において、然るべき時間をかけてその結果を待つことは、もしかしたらとてももどかしく面倒なことのように感じられるかもしれません。
それでも僕は、そんな現代だからこそ、そういった選択の先に、これまでとはまた違った人権の在り方が見えてくるように思います。
⑥正しさも権利も意識しなくていい世界
これまで人類は、その歴史における多くの争いや差別は、相互の無理解から起きるのだと考えてきました。だからこそ「全ての人が分かり合う」ことこそ、人類が未だ成し得ていない究極の理想だと信じて疑うこともなかったのだと思います。
そして、その理想を実現するために欠かすことのできないものとして、唯一絶対的な「正しさ」を追い求めてきたのです。
しかし、僕がこうして長々と述べてきたのは、それがこれまでの人類という種の生存戦略に過ぎなかったという一つの可能性であり、未だその変化の渦中にある人類社会において、僕たちが立っている現在では、一人ひとりが人権を持つということを「それぞれの中にある理想を可能な限り尊重する」ことであるとするならば、それぞれの正しさが時に衝突し反目するという現実であり、それはつまり個々の人間同士が完全に「分かり合うことはできない」という、これまで無謬に信じられていた理想に反するものでした。
けれども同様に僕が述べてきたように、社会が僕たち一人ひとりの理想を反映して、社会としての理想も変化し続けていくとするならば、これからの僕たちが目指すべき理想的な社会とは「分かり合えなくとも、それを大きな争いにすることなく、それぞれの違いを差別に変えない」ことなのではないかと、僕は考えます。
そのためにはまず、僕たちはこの社会を「唯一の正しさを確定し、それ以外を悪として断罪し排除するための装置」としてではなく「お互いの正しさの暴走を食い止めてくれる仕組み」であると、それぞれが捉え直す必要があると思います。
僕は冒頭で、法の役割を「個人の自由の運用規範であり、それは即ち多くの人にとって制限として機能する」と述べました。それは、ここに至ってやっと一つの説得力のある考え方になり得ます。
そもそも人類は「正しさとは何か」「人権とは何か」を明確に示すことができていませんし、あるいは「自由とは」「心とは」「生きるとは」という問いに対する答えも出せていません。
しかし逆に言えば、一人ひとりの異なる経験の中で育まれたものが、少なくともその人にとっての「正しさ」として、誰にも完全には否定することのできない何かしらの意味を持つということでもあります。
僕たちは一人一人の中にある正しさを完全に理解することも伝えることもできないし、同時にそれを完全に否定することもできないとするならば、それでもなお、僕たちにできることはあるのでしょうか。
少なくとも僕自身は、もちろん「ある」と考えています。
とはいえ、これだけ言葉を尽くしても、いくつかの可能性や方向性のようなものを漠然と提示するにとどまり、より具体的に何ができるのかをここで明確に示すことは今の僕にはまだできませんでした。
けれども逆にいえば、少なくとも長い人類の歴史を経て僕たちは、自分たちの手で築き上げてきた社会の中で「お互いに尊重すべき個人として」それぞれの正しさと権利の着地点を探すという段階まで、やっと到達したということを意味するのだと思います。
もしそうであるならば、唯一の正しさを確定させる必要がないのと同様に、誰しもに当てはまるような具体的な行動を示すよりも、ここまで読んでくれた一人ひとりが、異なる出会いの中で試行錯誤していくことが、それぞれにとって本当に意味のある具体策になっていくのでしょう。
だから、その先に見つけられるかもしれない着地点もまた、全ての人が同じ場所に着地するわけではありません。
しかし少なくとも、それぞれの正しさをただ一つの絶対的なものに統一しようとするよりは、いくらかは現実的なものとして捉えることが可能だと考えます。
そのようにして、自分にも他者にも「感情」があるという、とても当たり前のことを踏まえて、これから長い時間をかけて、自分自身で責任を持って、それぞれが納得のいく未来を見つけられることを強く願います。
そうして辿り着いた未来でもし、一人ひとりの間にそれぞれの着地点が見つけられたならば、そしてそのために必要な様々な制度や仕組みが社会の中にきちんと用意されている、そんな社会がやってきたならば、その先にもはや「正しさ」も「人権」も必要としない、その人がその人として、ただそこに「ある」ことの出来る日がやってくると信じています。
そして、エピローグのようなもの
これまで僕は何度も「正しさ」という刃を突きつけられ、そしてときに傷付いてきました。
そして、今回の話題についての僕の「感情」についても、やはり同じように正しさで切りつけられ、そしてついに僕の中で何かが「殺された」と感じました。
その時に感じたのは、怒りでも憎しみでもなく、深い深い底の見えない虚無感でした。
その虚無を抱えたまま、死んだように生きていくこともできたかもしれませんが、それは僕にとってはあまりにも困難なことであり、このまま自分自身をこの世界から消してしまおうかと本気で考えもしました。
けれども結局のところ、このまま正しさに殺されてしまうということは、人権や個性を自ら放棄することになると思い直し、長い時間をかけてこの文章をひたすらに書き続けました。
読み返してみると、話はあちらこちらにのたうち回り、全体の整合性もあやふやなところがいくつもあります。
それでもここには、現時点の「僕自身」が、何らかの形で書き記せたようにも感じています。
少なくとも僕は、完璧な人間などではないし(また、そんな人間になりたいとも思っていないし)、いくつもの矛盾や葛藤を抱えながら生きてきました。
だから、この長い長い文章もまた、これだけの言葉を重ねてなお「答え」でも「正しさ」でも「正義」でもありません。
これは現時点における
僕は僕として死ぬまでは生きるという宣言であり
最後まで読んでくれたあなたが、あなたらしく生きてほしいという願い
であるということをお伝えして、僕はこの長い話を締めくくりたいと思います。
(了)