開いた世界
世界の範囲を定められることが不快だ。一方で、今ここと定める安心感もある。
両者は相反しないものだ。
例えば心情として。
今ここと定める安心感とは、今この瞬間においてということ。現在はここだ、と定めることには安心を覚える。けれども、一生をここで生きろと言われたら。
例えば範囲として。
今現在はここにいると定め、だが他へ行きたくなったときは出て行ける、開放的な範囲。一方で、世界はここまでと定められ、出ることの許されない閉鎖的な範囲。
きっとそのような異なり。
自分は留まる人間であると、そう思い込んでいた。そうではない。
帰ってきたい場所がなければ、出かけることと捨てることとの区別はつかないのだ。
ここで生きろと言われる気がして、出かけることを捨てることと感じてしまう。
ここにはなにもない気がして、出かける気軽さで捨ててしまう。
居場所とは、外へ開けた居場所であればこそ安心できるだろう。
けれども …… ならば僕は「いってらっしゃい」と言えるだろうか?「行かせてくれ」と言う時ではなく、言われた時に。
送り出すことができるだろうか?
引き止めはしないだろうか。捨てられたとは思わないか。それが嫌で、閉じ込めたりはしないだろうか。
世界の範囲を、僕は開いているだろうか。
開くからこそ、行き帰りできる安心感となる。