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君へ名前を与えたい
この心の、ただ鬱々とした混沌さへ名前を与えたい。
一年半ほど前だったろうか。名付けることの大切さ、というものを教わったことがある。
それがようやくわかり始めた。
相手と付き合ってゆくために必要な、知ろうとすることそのものだったのだ。そして、それぞれを形容するのに相応しい言葉 ―― それが、かつて聞いた名付けるということ。
そうできれば、付き合い方だって見えてくる。
心を物と勘違いしてしまったのである。
操れると思ってしまった。
操れると捉えれば、知ろうとするのは相手のパターン。
そして、パターン分析から見えてくるものは、こうと固定された物質的な傾向。
しかし、昨日の好きが明日の嫌いへと刻々に変じてゆくことが人の気持ちなのだから、心へ向けてパターン分析を試みても、相手の人間存在とは決して見えてこなかった。
身体がヒトを形成している。心が人間を形成している。
であるならば、心に対しても一つの人間存在として接するべきであった。
かといって、外の人格と内の性格とでは、接し方に異なりがあることも事実ではあろうが ……
まず出会う。言葉を交わし、お互いを認識する。その後に、この相手はどういう人だろうとか考えたりして、付き合い方を検討してゆく。
次第に知り理解しようと試みることは、内でも外でも同じことだ。
やり取りをしたことのない相手との付き合い方を考えようなどと、妄想にしかなり得ない。
この心へと生じる感触を、僕という意識がどう捉えているか
相手を知らぬままに制御することだけを試みれば、根本を放置しては表層の苦楽へその都度薬を与えて一時をしのぐという、壮絶ないたちごっこを繰り広げる羽目になる。
いたちごっこに明け暮れるほど、人生とは長いものではない。
さりとて、一瞬で相手を把握できる超能力も存在しない。
ならば、僕は時間をかけて知ろうと試み続け、この心の快不快分け隔てなく名を与えよう。
そうして人間存在としての付き合い方を検討した時 ―― この心の内で、仲良くすることも喧嘩することも、いちゃいちゃすることも永遠の別れをすることも、決して難しいことではないのである。