優しさを求めているのだと仮定して――
僕は優しさを求めているのだろうか。
ふと思ったことだ。
それは「〇〇さん優しい ~!」という形式的な誉め言葉ではなく、かといって神の愛とか仏の慈悲といった理想でもない。「こうしてほしい」という希求でなければ、「こういう場面ではこうすればいい」という方法論では有り得ない。
探し求めているものは、僕なりの優しさと呼べる何らか。
そうと仮定して ―― だとすれば、それはとても寂しいことだ。
世にある定まった形式や理想(理想ですらも世の中の発想だ)で満足していれば、わけのわからないものを追って判別の付かない悩み方をすることもない。
何らかなどというもの、何故追い求める必要があるだろう。
それでも、そうと自ら定めた以上は他にない。
いつか見出すのか、それとも諦めるものか、それは自分自身の内で起こること。
赤の他人に諦めをおすすめされるものではないのだから。