霊剣『山姥切』を軸に、長義と国広それぞれの視点から見た設定の解釈

※キャラクターに付けられた設定について、現時点での憶測と感想です。自己解釈が多分に含まれています。何かを断定する意図や異なる考えを否定する意図は一切ありません。
※文章内に本科と本歌といった表記が混ざりますが、視点によって変えています。
※後半は更に個人の主観が強めです。ご留意下さい。
※本作長義(以下58文字)は「本作長義」と記載しております。


まずこちらが2振りのキャラクター紹介です。

◾️山姥切国広
霊剣『山姥切』を模して造られたとされる打刀
オリジナルでないことがコンプレックス。
綺麗と言われることが嫌いでわざわざみすぼらしい恰好をしている。実力は充分だが、色々とこじらせてしまっている。
◾️山姥切長義
備前長船長義作の打刀。長義は長船派の主流とは別系統の刀工となる。
写しであると言われている山姥切国広と共に伯仲出来。美しいが高慢。より正確に言えば自分に自信があり、他に臆する事がない。

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この紹介を前提にそれぞれの顕現の軸(物語)が以下ではないか、という憶測を元に解釈を進めていきます。
・国広の顕現の軸…霊剣『山姥切』を本科とした写し/綺麗と評される
・長義の顕現の軸…本作長義(山姥切国広の本歌)/美しいと評される


◾️(初)山姥切国広

1-a 霊剣とコンプレックス

まず初めに、国広のコンプレックスの核は、文字通り〝オリジナルである霊剣『山姥切』そのものではない〟事だと考えています。

※ここで指す霊剣『山姥切』は長義ではありません(詳細は後述します。)

国広の根本的な感情として初も極も共通しているのは〝正当に評価されたい、期待されたい、その期待に応えたい〟ではないでしょうか。
自分を見出してくれた審神者に期待されると嬉しく、それに応えたいという思いと、国広第一の傑作である自分を正しく評価して欲しいという願い。
しかしその一方で山姥を退治した霊剣の写しであるが故に、斬れ味や自身の価値よりも〝本科の能力をトレースしている事〟を先に求められる(と感じてしまっている)もどかしさを抱えているように見えます。

そこに触れられると自信が揺らぎ、この葛藤が「化け物切りの刀そのもの(霊剣山姥切)ならともかく、写しに霊力を期待してどうするんだ?」「山姥退治なんて俺の仕事じゃない」などの言葉に繋がります。
一見跳ね除けるような物言いとは裏腹に、恐らく根底には「もし自分が霊剣そのものであれば、期待に応えられたはずなのに(本科ではなく写しだからダメなんだ)」という思いがあるからこその言葉なのでしょう。

1-b 回想29・回想54

回想29では、ソハヤは霊力を写せているからこそ本歌の代替品(コピー)としての自分を受け入れており、ある種諦念を前提に前向きな姿勢を見せています。
一方、国広は霊力を写せていない事に悩みつつも、個の刀としての自負がある為本科のコピー扱いは腑に落ちません。しかし上手く言葉に出来ず、噛み合っていない会話が繰り広げられています。
(私はこの回想のすれ違い方は、2振りの表向きの性格の差と本質的な悩みの違いを反映していて好きです)

また、回想54では〝呪い仲間〟として南泉と会話をしています。しかし極修行で向き合った結果南泉にとって猫の要素は己の性分、すなわち元々持っている自分の一部であったと受け入れています。
国広と南泉は山姥や猫の呪い仲間などではなく、与えられた物語に対して否定気味で上手く消化できていない者同士、という事ではないでしょうか。敢えて言うならば両者とも名に囚われている事が一つの呪いとも言い換えられます。

2.見た目への言及と比較

初国広は「綺麗」という言葉を嫌がり自らを汚そうとします。これは霊力を引き継げていないのに、本科由来であろう外見を褒められても意味がないと感じているように思います。コンプレックスを感じているからこそ「似ているのは見た目だけ」のような捉え方となり、素直に受け入れ難いのかもしれません。
審神者から得たい評価は、「綺麗だ」という外面的な部分ではなく、刀としての強さや真価を見て欲しいという矜持があるからこその反応です。

本科霊剣との比較を強く嫌がる理由も、比較された結果「本物の山姥切ではないんだ」とがっかりされる事を恐れているのでしょう。審神者に対する表面的な態度は一見反抗的に聞こえるところもありますが、本質は深く考える繊細な一面もある為、さまざまな事柄について一人で悩んでしまうように思います。

3.期待と不安

「求められている役割を果たせていないのではないか」という不安と、「この審神者なら本質を見て自分を使ってくれるはずだ」という期待との間で自問自答を繰り返している結果が長期留守、放置、修行見送りボイスなどに繋がっているように思います。国広がここまで悩んでいた理由について少し考えた為、そちらは極の解釈で後述します。

名剣名刀と比較し「山姥切とは名ばかりの写しだ」と侮られるのではないかという迷いは何より国広自身が一番想像上の霊剣に畏怖し比較しているからこそ葛藤を深めているように見えます。
霊力がどういったものなのかは作品内で詳しく触れられていませんが、刀剣男士にとっては重要な要素の一つなのかもしれません。

4.国広視点から見る「偽物」

次に「俺は偽物なんかじゃない」という台詞について掘り下げます。当初は漠然と写しが贋作だと誤解されていた歴史がありそれを否定する意図だと捉えていました。
ですが、掘り下げていくとこの主張の本当の意味は「俺は贋作ではない」ではなく、「俺は山姥切の偽物ではない」=「山姥を斬っていなくても霊力がなくても、俺は俺だ」という事だと思われます。
極は心からの落とし込みと考えると、初はどちらかと言えば言い聞かせるようなニュアンスを感じます。
もし「偽物」が贋作を指していた場合、長曽根虎徹という贋作をテーマにしたキャラクターが存在するにも関わらず、「偽物〝なんか〟」と言い切るのは全体の整合性に欠けるように感じていました。
国広のコンプレックスを掘り下げる事でこの言葉は矛盾ではなく、本質的な思いが反映されたものであると解釈できます。

写しそのものがコンプレックスの原因というよりも、付随する能力や期待とのギャップが悩みの中心にあり、その結果自分が写しだからこそ応えられないのではないかという逆転の因果関係が生まれています。こうした状況が傑作という強い誇りの裏側で写しの自分を否定的に捉えてしまう心に繋がっているのではないでしょうか。


◾️(初)山姥切長義

1-a 長義の刀帳

上記の初国広の状態を踏まえ、改めて長義の刀帳の内容を補完してみます。ここはほぼ確定ではないかな?と思っているので先にザックリと。

「山姥切長義。備前長船の刀工、長義作の刀だ。
俺こそが長義が打った本歌、山姥切」というのは、すなわち「俺こそが長義が打った刀、本作長義。山姥切国広の本歌であり、霊剣『山姥切』として認識されている為、今は山姥切と名乗る」だと考えています。
「どこかの偽物くんとは、似ている似ていない以前の問題だよ」は「本歌を正しく認識できていない偽物くんは、そもそも似ている似ていないを論じる以前の問題。モデルとなった刀の本作長義と山姥切国広の本来の関係性から外れている」という意味ではないでしょうか。
原作ゲーム内では、2振りがお互いを「本歌」や「写し」と直接呼ぶ場面はまだ一度もなく、設定文でもと言われている、とあくまで断定を避けています。

1-b 偽物くんと偽物

「偽物くん」という呼びかけは解釈が分かれる部分ですが、私はその呼び方が本歌を正しく認識していない状態を指している意味合いの他に、国広が自分自身を「山姥切の偽物ではないか」と捉えてしまう否定的な感情も含まれていると考えています。だからこそ「偽物くん」に対して「写しは、偽物とは違う」と答える言葉までがセットで重要なように思います。
メディアミックス作品ではそれに加えて「偽物」の使われ方が状況によって変わります。(俯く国広を指していたり、霊剣『山姥切』を指していたりなど)これが解釈の幅をより広げさせているのではないでしょうか。

※手合わせの台詞にある「本物の太刀筋」という表現は長義や国広を本物・偽物としての比較ではなく、長義と霊剣『山姥切』を指した本物・偽物だと思われます。

2.特命調査『聚楽第』A

山姥切長義は、凡そ職務に真面目な仕事人として描かれる印象があります。
特命調査聚楽第での「なるほど、ご活躍のようだ」という台詞から、自分を形作る物語の中で「山姥切国広」を知っていたとしても刀剣男士としては初対面。
それにも拘らず監査官の姿で正体を明かさずに「実力を示せ、がっかりさせるな」と一人にだけ完全な私情で声をかけるところから、この時点で写しの存在に期待を抱いています。国広以外の隊員からはどう見えているのか少し気になります。

これは単なる憶測ですが写しが作られる事は名刀の証であり、そしてその価値が高い事は本来刀の本歌にとっては誇りとなる要素です。本作長義といえばよく話題になる長い銘、自身にとって重要な銘を刻んだ刀工の手から生まれた「山姥切国広」に少なからず思い入れがあるからこその言葉ではないでしょうか。

3.ミュージカル『刀剣乱舞』〜花影揺れる研水〜と回想141

刀ミュ『花影』では、長義の設定の核心に迫るような描写が随所に見られました。その一つが、冒頭の手合わせの場面です。国広との類似点に触れられた際、長義は「好きで似せているわけじゃない」と言い、それに対して小竜景光が「難儀だな」と笑って返します。この「難儀」という言葉は、原作ゲームの回想141でも使われている事から共通の感情を示しているように感じます。


回想141では後家兼光が開口一番に長義(ちょうぎ)ではなく「ながよし」と呼びかけています。
本作長義(ほんさくながよし/ちょうぎ)の刀を知る男士視点では〝山姥切長義〟はもっと状況が分かりやすいのかもしれません。お互いに名乗りあった以降は刀工の話には触れなくなります。
兼光は長義に対し善意で賞賛を伝えていますが、長義からすると刀そのものに触れる話は今は不都合に感じられたのではないでしょうか。
そういった点を踏まえ、直江兼続の「愛の戦士」としての影響が強く出ている兼光の性質を「難儀」と称し、敢えて一言多く返したのだと思われます。

4.長義と化け物斬りと高慢

長義はゲーム内で一度も山姥を斬ったとは言わず、南泉の回想を含めて化け物で統一しています。これは初国広の台詞「化け物斬りの刀そのものならともかく」を踏まえての発言でしょう。
写しが本科を霊剣と認識しているのならば、自分はそこのポジションに居る存在であるといった印象を与えたいように感じます。

回想55で南泉が「見知った顔」と言う事から尾張徳川の繋がりが途切れずに残っている証明と言えます。南泉は相手を本作長義として認識した上で敢えて山姥ではなく「化け物」という表現を選び、長義の言葉に乗って皮肉で応じたのでしょう。


次に長義の紹介文に記載されている「高慢」という表現について少し掘り下げます。もし高慢さをネガティブな要素として強調するのであれば、「より正確に言えば」という言葉は本来不要である筈です。このフレーズがある事で、「高慢」だけでは不十分で、何か補足すべき要素がある事が示唆されます。
これは長義の斬った記憶がないものに対して「化け物退治はお手の物」や「化け物も斬る刀だからね」といった言い切る姿勢などを特に強く示しているのではないでしょうか。本人にとっては他に臆する事のない自信の現れといえる一方で、この自信に満ちた発言や振る舞いが他者には高慢さとして映り得るという事かもしれません。勿論これが全てだとは思いません。

国広と長義は「山姥を斬った経験がない」という共通点の上で「山姥切」としての名を受け入れる姿勢が対比であると言えます。両者とも、山姥切という名を冠する事による矜持と求められる役割にそれぞれ異なる方法で向き合っているのでしょう。

初の2振りは霊剣『山姥切』と戦っているような状況です。


◾️(極)山姥切国広

1.国広と修行と山姥切

修行先が「自分が写しとして打たれた理由を探る旅」ではなく、「山姥斬伝説と向き合う旅」だった事からも国広のコンプレックスの根本には、自分のものではない「山姥切」の名があったと考えられます。「山姥切の写しとして評価されるのではなく、独り立ちしたい」という願いは、本科の代替品やましてや山姥切の偽物などではなく、個の刀として確立したいという強い思いの現れです。その為には強さを得て自分だけの評価を得る事が大切だと思い修行に出ます。

そして修行に出た結果、「本作長義の刀」の存在へと辿り着きます。長義の名が出てくるのはここが初めてです。同時に自分が写し元不明な写しとして顕現している事も知ったのでしょう。だからこそ極では「山姥切写し」の一文が消えました。
山姥斬伝説そのものは曖昧なものでしたが、写しだから唯本科の名である「山姥切」と紐付けられているわけではなかった。ルーツを辿る事で「この名を名乗るに値する物語が自分にもある」と確信し、漸くその名と向き合えるようになったのではないでしょうか。出陣時の名乗りが「参る」から「山姥切国広、参る」へと変化したのはこの為だと思います。

修行帰還の台詞で「写しがどうとか、考えるのはもうやめた」と晴れやかに言います。これは「写しである事がどうでも良くなった」という意味ではなく、これらにコンプレックスを結びつけて悩む理由にする事をやめたというニュアンスでしょう。

2.主の刀としての自負

なぜ国広はそんなにも山姥を斬っていない事を気にしていたのか、自分なりに少し仮説を立ててみました。
『刀剣乱舞』の中では化け物斬りという称号と、その名から期待される役割は他の刀よりも大きいものなのかもしれません。
鬼丸国綱が常に鬼を探し、鬼を斬る事が自分の役割だと定義しているように、国広もまたその名に相応しい役割を果たす事を望まれているプレッシャーを感じていたのではないでしょうか。
レイド戦で鬼を斬る逸話を持つ刀に特効が付いたように、いつか山姥に近い敵が来るという壮大な前フリの可能性もあります。

また、私は初の山姥切国広は審神者に対して人間不信のようで、どこか投げやりな怒りを抱えていると感じていました。ですが解釈を深める内にもしかしたら初期の段階から隠れた好感度は既にMAXだったのではないか?と考えます。
だからこそ傑作であるという強い自負があるにも拘らず、期待に応えられない事を恐れていたのではないでしょうか。その不安と期待が交錯した結果「俺なんかで悪かったな」↔︎「俺でいいのか?」といった発言に繋がり、自己防衛的な反発の態度に変わっていったように思います。
もし国広が誰かの期待に応えたいという想いがなければそこまで拗らせる事もなかったのかもしれません。伯仲はどちらも方向性の違う真面目さを持つキャラクターだなと思います。


極の国広は偶に「極メンタル」と称されますが、変化したのはあくまで表層の態度であり個人的には初も極も本質は変わらないと思います。
例えば花火ボイスでは「病も斬ってみせよう」と言う事から主の為に何かを斬る事への比重が伝わります。「主の命とあらば、なんだって退治してやる」という言葉も、山姥斬伝説への葛藤さえなければ、初期から言いたかったのではないか?とも考えられます。
極修行を経て「主の刀になった」のではなく、もともと「主の刀である」という意識が国広の核にあった感情の一つだったのでしょう。
美術品に戻る事よりもぼろぼろになるまで使われる事を幸せに思う、物として誰かに使われる事への意義が強いのかもしれません。

3.完結…?

…ここまでで国広は第一の傑作、主の刀として一旦綺麗に着地しているように思えます。
しかし、そもそもなぜ霊剣『山姥切』の写しとして顕現しているのか、「写しとは何かという事は広まっただろうか」という言葉が『刀剣乱舞』の世界の中では消化されずに残ったままです。
霊剣『山姥切』とは一体何なのでしょう。
そして一度は物語は曖昧なものだとしますが、長義と出会う事で「2振りの間で共有するお互いの歴史」について改めて向き合い始めます。ここから回想57への流れに繋がります。


◾️原作ゲームと歴史においての本歌と写し

前提として、本歌へのリスペクトがあってこそ写しが生み出されるという刀剣の歴史を無視してしまうと、フィクションであっても文化財や歴史を題材にした擬人化作品として失礼なものになりかねません。
『刀剣乱舞』は個人の趣味ではなく企業が仕事として作り出している作品です。更に所蔵元や自治体とのコラボも行われている以上、本歌と写しの関係性を軽視しているとは考えにくいでしょう。付けられた設定に対する評価や好みは別としても、製作には全て意図が込められており少なくとも文化への敬意を欠いたものではない筈だと考えています。

長義には山姥切国広以外にも写しが打たれており、また長義に限らず数多くの写しが世の中に存在します。そこで疑問に感じるのは「山姥切国広のように傑作の評価を受けなければ、写しそのものは無価値なのか」という点です。
もし単純に本歌と写しを優劣だけで語るのであれば、手本となる本歌の価値が際立つのは確かです。しかし、それだけでは写し全体が本来持つ文化的・歴史的意義が軽視される恐れがあります。ゲーム側が「真作と贋作」というテーマに取り組んだように、「本歌と写し」についても全体に配慮した扱いをしていると信じたいところです。


その上でゲーム内では〝写しという文化そのもの〟に別の視点から触れ始めたように思います。
長義と大慶との手合わせを見ると、少し不思議な言い回しで相伝備前の作風を褒めています。
これは何かを写す事=先達の文化や精神を継承し、後世に繋いでいく大切な技術として肯定的に描かれている台詞ではないでしょうか。
写しは手本となる刀とそれを学び取る刀工の優れた技術、そのどちらが欠けても成り立たないものです。

写しが注目される事で本歌の存在感が増し、本歌が評価される事で写しの価値も高まります。こうした相互作用を考えると、刀匠の技術や精神を未来に繋ぐ「パートナー」のようなものだと個人的に考えています。
作品内では本歌と写しについてそれぞれ明確に掘り下げられていない事から、ゲーム内でもう一歩踏み込んだ形で本歌写しの要素について回収される事を期待しています。

◾️顕現時の情報の差

序盤では初国広は長義と中々向き合えないように描写されています。これは、国広(本来の本科を知らない)と長義(写しを知っている)の状況の違いが反映されていると思います。伯仲においては長義のみが「山姥切国広の記録」を持った状態で顕現している為、互いのスタート地点が異なります。長義は自分の歴史に写しが生まれた経緯が組み込まれていますが、国広は本来の記憶がない為に本丸で本科と初対面です。

メディアミックスを含めてある程度ミスリードが意図的に仕掛けられていると思います。ですが、どの媒体でも『山姥切』という二重括弧や本科/本歌の表記は変わらない為、長義実装前から2人の軸設定はセットで練られていたと考えられます。

長義の視点から見ると、「自分以外を本科と定義し、架空の本科と比較して悩まなくて済むところで悩んでいる写し」という状況になります。
これを責めても仕方がないと理解しているからこそ、回想56の「でもそれは、仕方がないか。だって、ここには俺が居なかったんだから」という言葉に繋がります。
言い回しに皮肉っぽさが滲む為、一見すると喧嘩を売っているように感じますが、本題はその後の「その事を教えてあげようと思っただけだよ」にあるのでしょう。(ただし初手合わせでの気迫から、感情を完全に割り切れているかは疑問です。)

◾️伯仲の言葉

〝伯仲の出来〟という表現は、通常写した側が本歌に匹敵する出来である事を示す賞賛の言葉です。
その為、初国広がその評価を持っていない事はかなり不自然に感じます。本歌である長義との結びつきが欠けているからこそ、その評価も連動して失っているのではないでしょうか。
元主や刀工に関する思いを何も語らない事から、国広は「依頼で打たれた」情報のみを持って顕現している可能性があります。
もしどんな想いが込められて写しが打たれたのかという記憶があれば、初国広の認識もまた広がったのかもしれません。


『刀剣乱舞』においては、誰がどの情報を持っているか、または持っていないかまでが重要な設定なのでしょう。
長義の紹介文に「写しと言われる山姥切国広と伯仲の出来」と記載されているのは、単に後発キャラクターだからではなく意図的な設定だと思います。
「写しと伯仲の出来」という評価は刀の本歌にとって中立的なものです。それでも長義がこの言葉を持ち込んだ事は物語の中で意味があると考えられます。
そしてこの「伯仲の出来」という表現は、互いが極になれば敢えて言葉にする必要がなくなる為、長義の紹介文からは消えるのではないかと予想します。

◾️刀剣男士にとっての強さとは

三日月宗近の手紙に「我々の修行とは歴史を遡り、伝承を巡り、人々の思いを辿ること」とあったように、回想152で「刀剣そのものから離れる事でしか強くなれないのかもしれない」と言っていたように、刀剣男士の〝強さ〟とは単純なレベル差だけではないように思えます。
自分がどの物語によって形作られているかを自覚し安定させる事。そこに込められた愛や想いを知る事。そこに加えて本丸で積み上げる物語も進行形で力になっているという事ではないでしょうか。
極国広との手合わせで劣勢になっているのはレベルだけではなく、物語としてまだ埋まっていない要素があるといった世界観の示唆も含まれているのかもしれません。


個人的には伊達3振り全員から何故か劣勢になっている太鼓鐘貞宗の手合わせが気になります。
後実装の一文字則宗が一文字一家に対しては指導役のように、大包平が対天下五剣では全振りから気圧されているように、ゲーム内では逸話や物語の強度など何かしら食い合わせじゃんけんのような勝敗ルールがあるのでしょうか。
則宗と孫六の手合わせは随分と楽しそうです。

◾️号と逸話と回想138

「刀剣にまつわる逸話の収集は、重要事項だよ。忘れ去られれば、僕らは顕現できなくなる」
これは南海太郎朝尊の台詞です。
忘れ去られれば。誰に?
顕現できなくなる。どうして?
『刀剣乱舞』は「語られてきた物語」を重視します。どんなに曖昧で荒唐無稽でも、人や記録を通じて語り継ぐ事に意味があります。語られなくなれば歴史から消えるも同然です。

表面的には号の認識や逸話の奪い合いに見える事が多いですが、ゲーム内では長義が自分を山姥切と呼べ、または国広を山姥切と呼ぶなと言った事は一度もありません。
唯一、長義が向けた主張は「『山姥切』と認識されるべきは俺」というものだけです。
山姥斬の伝説は国広の手紙で語られたように、逸話が行き違いになった経緯こそがのちの歴史です。その認識がどちらかに偏ってしまっては2振りの物語は完成しないのではないでしょうか。


回想138で孫六兼元は「枝葉への慮り」として新撰組の物語に愛惜を抱きつつも、自分よりもその物語を語るに相応しい後継者がいると考え語りの場を譲ります。
「知ることで己を知る」とは後に紡がれる物語を理解する事で自分の立ち位置を再確認し、自分がどのように行動すべきかを明確にする事ではないでしょうか。それが結果的に相手に与えるという行為に結び付きます。
それに対して一文字則宗は、ここに居ない長義の口癖を用いて後世を尊重する2振りの振る舞いを好意的に重ねています。だからこそ長義は国広を知りに行き、同時に自身の持つ物語を与える事が目的の一つではないかと感じています。
孫六にとっての「枝葉」は新撰組であり、知る為の手段は読書です。長義は手段こそ異なりますが、同じように枝葉の物語を大切にしているのでしょう。

◾️国広と霊剣『山姥切』

なぜ国広が霊剣『山姥切』の写しとして顕現したか、理由は分かりません。山姥切の号が本歌-写しの間で取り沙汰された時期(昭和)に、震災で焼失したとされる空白期間があった歴史を設定に反映させている可能性もあります。もし記憶が飛び石的であれば、鯰尾や一期一振のように記憶がない事を自覚しているはずですが、おそらく国広は修行に出るまでは記憶がない事自体を意識していなかったのかもしれません。

◾️長義と特命調査『聚楽第』B

長義が『山姥切』を名乗る事を選んだ理由はいくつか考えられます。本歌としての矜持や銘を打った刀工への感謝、そこから生まれた山姥切国広への想いなど理由は様々です。
写しが本歌を正しく認識していない事は歴史そのものが変わる恐れがあり、正史とそれに連動して国広の存在が危ういと感じていた可能性なども考えられます。


もう一つの視点としては、聚楽第の存在です。
特命調査の法則に従えば「天正小田原」などが当てはまる筈ですが、聚楽第は年号がなく、場所も局所的であり、「状況終了(訓練終了の意)」という言葉が使われています。
もし本歌写しの認識の為だけの『山姥切』ならば歴史を先に修復しても問題はない筈です。先にお互いの認識を強化しないと、何らかの守れない歴史があるのかもしれません。ここは予測不能です。
現状に思うところはあるものの、長義が自分の意思で『山姥切』として振る舞っているのは確かだと思われます。だからこそ回想57であれ程衝撃があったのではないでしょうか。


聚楽第任務で監査官を未入手だった場合、こんのすけから「…彼はいったい何者だったのでしょう?」と謎の台詞が残されます。
そこから特命調査の地で一文字則宗が菊一文字だったように、本丸に正式配属される前は本作長義の姿だったのではないか?と予想しています。
監査官の2人は色合いも対になっており、衣装が変わるのは単に姿を隠すだけでなく、何かしらの設定があるのかもしれません。
一文字則宗が顔を隠していない理由が加州清光と話を分かち合う為だとすれば、逆に長義はその姿を見せたくはなかったのではないでしょうか。
刀剣乱舞では何かと語呂合わせや記念日が仕込まれている事が多い為、実装日がハロウィン(仮装)である事も設定の示唆と遊び心を混ぜた意図的なものだと思います。
116振り中2振りだけに付与された「監査官」という役割や政府刀としての設定など、これからまた明かされていくのかもしれません。

◾️伯仲の信念

※ここから下は更に自己解釈が強まります。
私は2振りそれぞれの核となる感情は以下だと考えています。
国広→主の刀として最期まで傍で戦う
長義→一刻も早くこの戦を終わらせ、正しい歴史を守る 
伯仲の関係性はメディアミックスなどからメインとして捉えられがちですが戦の為の刀剣男士として顕現している以上、あくまで二次的な要素。しかし2振りにとっては切っても切れない大切な繋がりなのではないでしょうか。

◾️長義→国広への想い、国広→長義への想い

その上で更に完全なる主観ですが、長義から国広に対する想いは、現状で3つだと考えています。

1.本歌としての正しい認識
2.伯仲の出来と称された物語に恥じないよう、互いに研磨し合える関係でいたい
その為に、相手が自分に劣る事も、自分が相手に劣る事も許さないのでしょう。
3.国広に山姥切の名を誇って欲しい
刀ステ慈伝→綺伝で「名などどうとでも呼べばいい」と言った言葉が怒りのキーになったように、回想57で「名は、俺たちの物語のひとつでしかない」の言葉に憤りと動揺を見せたように、伝説も名もお互いに纏わる歴史を全て大切にしたいように思います。
回想57は絶望的にすれ違っていますが国広が名を軽視しているとは思っていません。中間の会話が意図的に3往復程削られているのでは?とは思っています。


伯仲に関しては、本歌-写しの認識が表のテーマであり、裏のテーマは互いの呼び名のように思います。国広の認識が「本科から本歌に」「山姥切写しから長義写しへ」と変化し、それが長義に伝わった時、初めて互いの本来の名を呼び合えるのではないでしょうか。

国広が長義と共に過ごす中でどんな感情を抱くのかも伯仲の一つのポイントだと感じます。刀工から受け継いだ思いを再確認するのか、回想で「お前とこうして向き合う事でまたひとつわかった気がした。また話をしよう」と告げたように、そのアンサーが返ってきた時がもしかすると長義の修行のきっかけになるのかもしれません。

個人的に長義極は霊剣『山姥切』の物語を自らに統合し、霊刀山姥切長義になると考えています。しかし山姥切の話はこれまで以上にしなくなり、漸く本作長義として出自や銘など、個人の話を全面に出すようになるのではないでしょうか。ここはまだ考え中です。

◾️個人的な疑問

・結局霊力とは何?霊力の有無はどう影響を及ぼすのでしょう。無双ノベライズで霊刀扱いだった2振りに霊力は本当にないのでしょうか。
・回想56と回想57だけなぜ並行的な世界線を見せられている?実装順で考えれば回想56の入る隙間がありません。ですがメディアミックスでは初同士の関係構築を主に扱っています。時間軸が入り組んでいるように見える状況は、関係値の変化といったメタ視点以外にも世界観としての謎があるのか知りたいところです。
・回想54の「本当に顔を隠している」事を南泉に教えたのは誰?実装順から考えると長義はまだ居ません。
・『刀剣乱舞』は余白の多いゲームです。
ミスリード狙いと仮定し、制作側は長い時間をかけてユーザーのどんな反応・感情を期待してゲーム内に仕込んだのかが気になります。

◾️最後に

長義の極が実装される前に、今の自分が考えられる範囲で思考を整理してみました。
解釈は移り変わるので1ヶ月後には全く違う事を考えているかもしれませんが、その時はその時とします。
答えがどう転んだとしても、伯仲をセットで好きな人もキャラクターを個別に好きな人も、応援している方にとってそれぞれ良い結末になればいいなぁ、と心から願っています。極楽しみです!

2024.12.14(土)

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