愛について、どうおもいますか

愛とは何か。という問題について、私は避けて通ってきました。ただ、友人とふざけてでも性についての話をする果てに「愛」という言葉に引っかかる。「こうこうこういうプレイがさぁ!たまんねえのよ!」なんて言う、えげつな~い会話も「まあでもこういうのって信頼関係?愛?がないとできないよね、こんなプレイとかさ、あっはっは」っていいつつ、愛が何なのか結局分からずじまいで終わる。

私は未だに愛と恋の差もろくに知らず、信頼関係だとか、愛の相互性だとか、コミュニケーションだとか、言葉の記号性ですとか…考えても考えてもよく分かっていない。でも、分からないままでいいかと言われると、たぶんそうではないから、常にアンテナを張って生きている。


オキシトシン、という単語を皆様は耳にしたことがありますでしょうか?

愛のホルモンとかってよばれてるものです。人が愛情を感じるときに出てくるホルモンです。人は愛を感じるとオキシトシンを出す。いや、オキシトシンが出ているから愛を感じている、のかな?鶏が先か、卵が先か…。

でも、もしも、オキシトシンが欠けている人がいるのならば、その人は愛を感じないのか?ってちょっと考えちゃいます。あまりこの手の話に詳しくないので、あんまり余計な事は言わないようにします。じゃあなんで言ったんだよ!って…言われちゃいますかね。けれどね、衝撃だったんです、愛が作用であることに。いや、作用であることは作用であるんだけど、それが科学的に…?というのかな、認められているということに、私はほんとに驚きました。

……言葉というのは常に的確に伝わらないものだ。コミュニケーションは伝わっていそうで伝わっていない。「好きだよ」という言葉を言ったとする、自分はもちろん伝わっていると思い込む、自分が伝えたいレベルで好意を伝えている。

「そんなの、気にしなくても大丈夫だよ」という言葉を投げかける、それは切実に伝わって欲しいと思いながら言葉を発している。相手は「ありがとう」だとか「それならよかった」だとかいう言葉で返してくるとする。けれど、実際その伝えたい事が、同じレベルで相手に伝わっているかなど、確認が取れないじゃあないか。

うれしさの度合いがもし1~10で表現できたならば。こちらが10のうれしさを表現したくて、なるべく頑張って言葉の限りを尽くして10を伝えても、その10が、10そのまま丸々伝わっている事は確認できない。もしかしたら7かもしれないし、はたまた2も伝わってないのかもしれない。そんなことを私は不安に思うし、同時に確認できなくて、よかったとも思う。世の中は勘違いだらけで、曖昧だらけでとてもよかったと思う。

ではなんで、私たちはその、もしかしたらすれ違いが起きているかもしれない言葉達を受け入れて、安心したり疑ったり、返したいと思ったりするのだろうか。愛を囁かれ、愛情を感じたとする、けれどどうだろう、それが嘘だったら、いや、その、レベルが違うとすれば、勘違いの愛を受け取った事になる。これってエゴじゃあないのかいって。

けれど確認なんて取れやしない、人が種を存続させるためにできた効率的なホルモンによって、人々が翻弄され、悩み、死んだり生きたりする。相手の心の中だとか、考えている事だとか、そういうものは一切、絶対に、わからない。それが分かりきっているのに、「あの人は私を理解している!」だとか「私はあの人を理解している!」などと思うのだろうか。

…私の場合は、相手の言葉が嘘だとしても、自分の言葉がたとえ伝わらないものだったとしても、信じているから、ではないのかなと考えています。自分をじゃない。相手をです。その言葉を発した相手を信じている、その言葉を受け取った相手を信じている。特に密接な関係にある人ほど、それが強く作用する。

たぶんそれは、そう思いたい自分がいるからだ、と、思う方も居るんじゃあないかな。それでも、信用している、のは自分自身なんだからいいんじゃないかなあなんて私は思ってます。

愛ときいて皆様は、何を思い浮かべますか?

男女の愛でしょうか、家族愛、友愛、または、アガペーという、神の愛というものもありますね。私の勝手な予想では、みなさんのイメージは、男女の愛を想像する方が多いのではないのかと思っています。

愛は常に何かを生産する。というのが、私の持論です。全然異論があってもおかしくないです。あまっちょろーい人生を歩み、こんなふうに文にできるのだから、きっとこの持論には、穴があるのだと思います。

ちょっと皮肉ですが、世の中の大半の、説明できる事、文にできる事、つまるところの、我々が理解できること。には必ず穴があります。だから、持論です。といっておきながら、きっとどこかで、間違ってるかもしれないな、なんて思ってるんですよ。だから、いろんな意見があっていいと、私は思ってます。

とりあえず今は、この持論が、現在の私にとっての答えだという前提で、見てください。なにか、別の考えがある方は、教えて欲しいです。私はこの話について、まだまだよく分からないから、井の中の蛙状態なのだと思っています。

男女の愛というのは、生産性という意味合いで非常に強く私たちのあたまでイメージしやすいんじゃないかなぁ。ってなかんじです。

さて、愛は常に何かを生産する。というのは、良いことも悪い事もです。だから、無感情だとか、そもそもにして関わらないことは、愛が欠落した状態だと感じます。そこにはたぶん、何もありません。

先ほど、コミュニケーションは取れていそうで、取れていないと言いました。最初から、伝わらないなら言わなければいい。それでも伝えたいし、知りたいと思うのは、きっとそれこそ愛による作用なのではないのかなと。

人と関わる事は摩擦する事である、衝突もあれば心のよりどころでもある。衝突にも愛はある。愛があるからそれが起きる。…それでも衝突して喧嘩して、どうも人とうまくいかないこともある。マイナスなことが多く起きて、ぎこちなくなる。

何故か?衝突は、愛がなくては起きないのではないのか?…たぶんね、その衝突は、そもそもにして、誰かに向かって行なった衝突ではなくて、自分自身にベクトルをむけた快楽に他ならない。オナニーみたいなものです。

俗に言う、メンヘラ って言われる方とか、どこか協調性のない発言ばかり繰り返してしまう人が起こす衝突は この種類の自己愛 なのではないのでしょうか?それでも、愛はこのようなところでも、生産される。

人は何故愛を感じるのでしょう?何故返したいと思うのでしょう?全部自分にかえってくるからでしょうか?それだけじゃあないって思うんだけれど、確かに人に伝わって欲しいと思うんだけれど、その人から何もかえってこなければ悲しいと思うのもまた事実で、悲しいと言う事は、確かに愛を伝えて満足する自分だけじゃなく、相手からそれがまた巡り巡って自分に帰ってきた所までがセットということで、そうなると、無償の愛というものは存在しないのかな。

悩みどころ、私自身なにも纏まっていない…友人と「無償の愛」「条件付きの愛」について先日会話をして、影響を受けて書いたのですが、まるで分かってない。…ただの思考整理ですね。

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