コスパの悪い病気
大塚先生は京都大学の、きっと偉くて凄い先生だ。
大塚先生のことを知る人から、なんども大塚先生の学術的な凄さを教えられてきたけど、本人がウチすごいどすぇ感をまったくださないし、そもそも学術的な凄さはこちらもサッパリわからない。
「ぼくなんてノーベル賞とれないし」と、すこしホロ酔いの大塚先生がこんな弱音をいったことがある。ぼくが耳にしていたさまざまな弱音のなかで、断トツにいちばん強気の弱音だった。
なんだ、ノーベル賞とれないって。そんなのあたりまえじゃないのか。
そのときにこの人は凄いんだと理解した。あと何年か何十年かしたらノーベル賞をとっちゃうのかもしれない。きっとそのときにこの記事がマスコミに引用されるだろう。
このノーベル賞エピソードは大塚先生を知る人にぼくはよく披露している。鉄板ネタなので重宝している。
ついさいきん大塚先生とYouTubeでワインを飲みながら、台本もなく話すという対談があった。酔った皮膚科医とがん患者の会話をたくさんの人が見てくれた。
「がんはコスパの悪い病気」ということをぼくがはなすと、コメント欄もパソコンに映し出された大塚先生も「コスパ?」みたい反応をしていた。
コストというと費用や原価など経済的コストを想像しがちだけど、時間的コストや肉体的コスト、さらには不安でメンタルを削がれる精神的コストまである。
がんという病気は大変だ。だだえさえ大変なのに、そこに無駄な大変さまでトッピングされていることがおおい。ぼくはそこにコスパの悪さを感じてしまう。
病気になると、生活の質を落とすことをひきかえにして生きることを余儀なくされる。対価となった生活の質にたいして、無駄な大変さがまさに本当に無駄なのだ。
『無駄な大変さ』これをはっきりいってしまうと、人間関係や人の目を気にすることだ。がんによってあぶりだされた人間関係で無駄な大変さが発生する。
いままでこういう話をしても、健康な人が大多数だからなかなか伝わらなかったかもしれないけど、コロナウイルスによってすこし理解されやすく共感されやすくなったかもしれない。
コロナウイルスは重症化すれば恐ろしい病気だけど、コロナに感染したあとのバッシングや村八分や仕事への影響などを恐れている人もかなりおおくいるんじゃないだろうか?
都内ではコロナウイルスに陽性になったおおくの人が無症状のようだ。しかし日本の迷惑をかけた罪はおそろしく重罪だ。
無症状や軽症でよかったね。とはならずに迷惑をかけた罪を自業自得というバッシングの武器で懲罰される。コロナウイルスですら、無駄な大変さがどっぷりとトッピングされているのだ。
未知のウイルスというハリウッド映画のようなわかりやすい人類共通の敵が出現しても、敵と敵が手を取りあって協力するのではなく、敵の敵であるコロナを武器にして、敵を叩いてしまうのだ。
映画とちがって現実なんてそんなものかもしれないけど、インデペンデンスデイに感動をした身としてはすこしさみしい。
ぼくががんになったときに、無駄な大変さが減るだけでずいぶん楽になるのではないかと感じた。それだけで治療に専念できるのだ。
無駄な大変さがなくなるのは、いまはまだ難しいのかもしれない。医療者と患者ですらボタンのかけちがいやコミュニケーションエラーがおきているからだ。
でも、いつかコスパの悪さが改善されて適正価格になるとぼくは信じている。適正価格の値下げは医療の進歩に期待するしかない。
そのためには立場や視点の違う人どうしが手を取りあって協力することが大切だ。敵になって戦うことではない。
大塚先生にお願いされて8月23日に開催されるオンラインイベントSNS医療のカタチの手伝いをしている。
この記事もお手伝いになっているのかわからないけど、お手伝いを装って医療のことを書くいい機会にもなっている。
これからイベント開催までの一ヶ月間、いままでに感じてきた医療のことをここに書いていこうとおもう。
幡野広志
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