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来年の創作大賞にむけて考えたこと、いろいろ

この文章を、10月4日に書いている。
今日私は、今年の創作大賞に落ちたことを悟った。いろんな気持ちがあって少しごちゃごちゃしているから、ひとつずつ整理していきたい。


選ばれないと確信していた、はずだった

もともと期待していなかった創作大賞。
だからこそ逆に、中間発表にエッセイが一件残ったことを知ってから、緊張と期待が一気に高まってしまった。

期待していなかった理由はいくつかあるけれど、結局は、自分が創作大賞のエッセイ部門で受賞する姿が想像できなかったから。そこまで至ってないとわかっていたから。それに尽きる。

創作大賞は普段のコンテストとは違う。コンテストは、企業とnote社がよかったもの、テーマに沿っていたものを選んでくれる。
だけど創作大賞には、その先がある。

作品の良しあしはもちろんだけど、私が出版社の編集者なら、「この人が本を出して売れるだろうか」を総合的に判断すると思う。

だから特に著者が何者かが問われるエッセイにおいて、私のように無名でフォロワーが多いわけでもなく、何か突出する部分も、それを補って余りあるユーモアも文才もない人間が受賞するとは、正直冷静に考えてとても思えない。

そのことについて私はしみじみと諦めていたし、だからこそ去年、エッセイ部門ができたときにも、なんだか出す気になれなかった。

だからこそ、今年の中間発表を何ともなしに眺めていて、突然、エッセイ部門に自分の名前を見つけたときには、なかなか強い衝撃を受けた。

まじか。

しばらく何も考えられなかった。
どんな気持ちになればいいのか、わからなかった。

それでも、あることに思い至ったとき、私は猛烈に嬉しくなった。

それは、中間審査をした誰かが、「この人を、どこかの出版社が気に入るかもしれない」と思ったからこそ、私のエッセイを残してくれたはずだ、ということ。

自意識過剰かな?
でも、「まあ難しいかもしれないけれど、でもひょっとしたらあるかもしれない」くらいには思ったはずだ。「全くない」と思ったなら、こんな倍率の中で残してはもらえないだろう。

自分が授賞することも、まさか本を出すことも、正直まったくイメージができない。
そんな中で「あなたにも可能性があるかもよ」という囁きを聞いてしまった(空耳だったかもしれない)。

なにより文章が認められることは、ほかの何が褒められるよりも嬉しい。
本当に本当に嬉しい。
身体の中がポカポカして、足元がふわふわして、どうにも正気ではないような感じだった。


そんな状態で、私は午後の打ち合わせに電車で向かいながら、自分のエッセイを読み返した。そしてついつい、号泣した。

やっぱりどこか、感情の箍か外れていたのだろうとは思う。

途中から周りの人たちにじろじろ見られていることは気づいていたけれど、止まらなかった。目的地の駅名がホームに見えて、慌てて電車を降りるとそこは降りたかった「東銀座」ではなく「東日本橋」で、私は少し我に返った。

その後も二度読み返し、二度とも泣いた。いいエッセイだ。私のエッセイは、いつだって一番、私のために存在している。

元々それだけで十分なはずだったのに、囁きを聞いてしまってからは、しばらく煩悩にとらわれた。

毎日ぼんやりと携帯を眺め、メールボックスを何度もひらいた。
連絡がないまま九月を終え、十月の一週目が終わろうとしている。

そろそろ素直に認めたい。もうギブアップ。どうやら今回はダメだった。
もうこれ以上待つことに耐えられない。

それに私が編集者なら、今年の私とは選ばないと思う。
冷静にそう思うからこそ、さっさと気持ちの整理をつけて次に向かいたい。


私なら私を選ばない理由

私が編集者だとして、先に揚げた以外にも私を選ばないと思う理由がいくつかあるから、ここに列挙したい。
普段はこんなことはしないけれど、敢えて書いて、自分への課題を認識したい。

① 寡作すぎる

いざ一緒に仕事をしたいと思ってくれる編集者がいたとして、私がエッセイをアップするペースが遅い。
私が編集者だとして、「本を出しませんか」と声を掛けて二人三脚が始まったのに、著者が書けないのが一番困る。
出せば当たる大御所ならまだしも、新人作家で書けない人に巻き込まれてうだうだするのは絶対に避けたい。

そしてnoteは、その人がどのくらいのペースで書けるのかが丸見えになってしまう。せめて週に一本は書いとけよ自分、と思う。

② 文章の質に波がある

これは①とも繋がるけれど、正直、コンテストに出すときには自分なりに作品を仕上げきっているのに対して、ふわっとしてエッセイなのか日記なのかブログなのかよくわからないものが、ちょいちょいある。

これも編集者にとってはとても怖いことだろう。
原稿を依頼して上がってきたものが、「この人の低い方のクオリティなら困る」と思うと、私なら依頼を出せない。

今後出すものはしっかりクオリティを整えていきたいし、過去のものも少しずつ整理したい。地味だけど推敲は好きなほうだ。


③ 読者が見えない

もし私がエッセイ本を出したとして、その本は、誰に向けて、どの本棚に並べられるのだろうか。

育児? いやいや、育児というほどには育児の細部でもないし。
文芸? 弱くない? タイトルは? 帯にはどんな言葉を並べるだろう。
笑えるエッセイでも、泣けるエッセイでもない。
元気が出るわけでも、役に立つわけでもない。
私のエッセイは、誰の、どんなときに、寄り添うことができるのだろうか。

……いま、ここまで書いて迷路に入りそうだったので、このテーマについては深堀するのを一旦止めよう。

とにかく、時間をかけて、自分がいいと思うものを揃えていきたい。
それが何かになるかもしれないし、ならなくても、自分にとって大切な記憶の標本になっていくことは確実なのだから。


スタートラインには、立った気がする

前にも少し書いたけれど、「アボカドの種」という俵万智さんの歌集が好きだ。

子のために来て親のため去りゆくを宮崎空港今日も快晴

人生は油断ならない 還暦の木箱に小さな恋のブローチ

ハッピーバースデーあの日あなたを生んだこと、今夜ケーキを分けあえること

ちょうどいい死に時なんてないだろう「もう」と思うか「まだ」と思うか

「糸」を聴く父と母とを見ておれば私を包む暖かき布

恋、結婚、子育て、運転、引っ越しの「する」は「しない」よりも偶然

言葉から言葉つむがずテーブルにアボカドの種芽吹くのを待つ

歌集という一つの中に、命があり、病気があり、子どもの成長がある。
自分の恋があり、戦争があり、人生がある。

ひとつひとつの歌に、しみじみとした実感がこもっている。
実際に生きて、感じたことだけから芽吹いた、生き生きとした言葉たち。
だからこそ沁みる。
人はみんな結局はひとりで、だからふいに心もとなくなる時に、とても染みる。

自分の書いたものも、どこかでそういうふうに響けたらいいなと思う。
生きて、見つけて、感じて、考えたこと。
そういうものを丁寧に揃えていきたい。よし。


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同じく中間に残って、ヤキモキしていたという大塚さんの記事。
もう本っ当に同じ気持ちでしたし、さっそく切り替えてバンバン書かれている姿勢が本当にすごい。励まされます。


自分で書いて自分でわんわん泣いたのはこちら。

来年はなんとか入賞して、授賞式でnoterの皆さんに会いたい。それが今のところ一番のモチベーションだ。

友達が欲しいなあと最近しみじみと思っている。文章を書いたり、読んだりするのが好きな友達。
webから一歩踏み込んで付き合える、励まし合える友達。

来年、そんな人たちと邂逅できるように。書くぞー。



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黒木郁
私の、長文になりがちな記事を最後まで読んでいただき、本当にありがとうございます。よければ、またお待ちしています。