学歴論争について

 よく、「学歴は必要なのか」論争が勃発する。週刊誌のつまらない記事に触発されて、自称高学歴にマウントを取られた、という嘆きに感化されて。人は争うのがどこまでも好きなのだな、そりゃ古代文明の遺跡でも掘れば穴のあいた頭蓋骨がゴロゴロ出てくるわけだ、とつくづく思うのである。

 さて、この学歴論争でよく持ち出される意見は以下のような物だ。まず、「学歴は就職など様々な場面で役に立つのだからある方がいい」という意見がある。これは正直否定できない。実際、就職サイトなどでは実しやかに「学歴フィルター」なる物の存在が噂されているし、婚活の場に足を運べば、「〇〇大卒以上」と宣われるご婦人を目にすることができる。(未だに遺伝的要因の方が環境要因よりも子供の学力に大きな影響を持っていると信じているのだろうか。)

 一方「高学歴の人間は幼い頃から勉強漬けで、人間生活を送るのに十分なコミュニケーション能力を持ち合わせていない」という意見がある。これは残念ながら、所謂「高学歴集団」という物の中に身を置いたことがないのだろうな、と思う。高学歴のあいつらの中には、神に二物も三物も与えられたような奴がいる。金持ちの家に生まれ、顔がよく、背はスラッと高い、そして運動神経抜群、話も上手なので女の子にもモテまくり、そんな奴がいる。非常に腹が立つのである。勿論高学歴集団の中にはコミュニケーション能力に些か問題を抱えている奴もいるが、それは学歴のない人に関してもそうであろう。そういう奴は、大体小学校の休憩時間には読書をするでも球蹴りに勤しむでもなく、ボーッと、空を見上げていた筈であるし、文化祭や体育祭の集合写真では、ポーズの一つも、笑顔のかけらも見せていない筈である。皆さんの記憶のどこかにも、ひっそりと体育座りをしているはずだ。また、「高学歴集団」の中にはしきりに自身の出身大学でマウンティングを仕掛けてくる奴がいる。そういう奴は、何も自慢することがない人間が、たまたま環境に恵まれて学歴を手に入れ、それを唯一の光明とばかりに必死に自己肯定感を高めているだけだから、そっとしておいてあげるべきだろう。真の高学歴は、「一応東大です」の「一応」の精神を押し出してくるのだ。

 と、ここらで「つらつら書いているお前は、結局どっちなんだ」と言う声が聞こえてきそうである。言って仕舞えば私は学歴不必要派である。そんなものはなくても幸せに暮らす(皆様にとって「幸せな暮らし」が一体どんなものであるかは私の知るところではないが)ことは可能だからである。以下に、それなりの学歴を備えている私の体験談を載せて、筆を置くことにする。

 先日、夕方の五時頃、さぁそこの角を曲がれば家に着くぞ、という時に、一台のバイクが轟音を立てながら、一時停止信号のことなど気にも留めず、私のすぐ横を通過していった。よくよく見れば、そのバイクの操縦士は、かれこれ6年間一度も会っていない小学校の同級生ではないか。私は、危うく同級生が操縦するバイクに轢き殺されかけたのである。高学歴だって、バイクに轢かれて仕舞えば、死んでしまうのだ。高学歴が死んだからと言って、豪華絢爛にロールスロイスの霊柩車で出棺される訳でも無いし、低学歴が死んだら間伐材で亡骸を燃やされる訳でも無いのだから、伸び盛りの時期に机に向かってガリガリ鉛筆の芯を無駄にするよりは、外にでも出て、テニスの一つでもやり、動体視力を鍛え、同級生の轟速バイクをヒョイと避けれるようにしておいたり、死んだ時に「まぁ、見て!おじいちゃんのこの大腿骨!すごく立派よ!!」と言われる方が、よっぽど幸福であるように感じられるのだ。

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