春を探しにいった
最近不安定で薬の量を増やしてるので、文章があんまり書けなくなってきてるかも。でもnoteが放置になるのも寂しいから、ちょっとだけ。
3月11日。
防災無線により、12年前に思いを馳せる。一分間の黙祷を終えた後、夕方、春を探しに行ってきた。
毎年桜を見に行くところ。木が立ち並ぶ道を適当に歩いていった。つぼみはまだ固く、ほころぶのはそこそこ先に思えたけど、道の端につくしがぴょこぴょことたくさん生えていて可愛かった。タンポポもちらほら咲いていた。
ここの桜は他より白かったなとか、ここを通りながら写真を撮ったなとか、その時まだ抱えていた幸せのことだとか、悲しかったことだとか。そんなのが浮かんでは消える。
木の多くは枝が切られていた。伸びすぎないようにするためなんだろうけど、見た目が不格好で、痛々しく、自由を奪われているようで、私はそういう木を見るたびに物悲しくなる。
春の空気は生ぬるくて、肌にまとわりつくようなとろみを感じた。ウインドブレーカーの隙間から風が通り抜けていく。
なんとなく電気屋に寄り、安いゴミ箱を眺めたり、自販機限定100%果汁炭酸ジュースが売り切れてるのを眺めたりした。
意味なんかなんもなかった。
ぼーっと興味もないお菓子の棚を見ながら、過去に見かけた誰かの意識とふっと接続される。したくもないのに共感していて、それが苦くてうつむいた。
ドラッグストアで納豆、チーズ、チョコレートを買い、ショッピングモールを歩き回ってから帰宅した。
人は怖い。外は危険だ。自分が変に見えてるんじゃないかって、いつも不安になる。
でも生きているので、朝食の納豆は欠かしたくないので、買い物はする。
何かから逃げるようにひたすら歩いてた。帰ってスマホの歩数計を確認したら9440歩。一万歩まで惜しかった。疲れ果てれば考える余裕もなくなって、楽になれるかなって思った。でも、やっぱり家に帰ってから気分が落ち込んでしまった。
最近、薬を飲んでもなんだかダメだ。確かに不安も悲しみも和らぐんだけど、それでも憂鬱さや心細さが、どこかに空いた小さな穴から染み出してきてしまう。
どこから染み出しているのかはっきりとは分からないから、塞ぐこともできず、見当違いのごまかしを取っかえ引っ変えしながら、その日暮らしで精神を保つ。
いや、保てていないかも。保ててなかったわ。全然だわ。
想像の中の優しい人に頼ったりする。
でも、私が都合のいい言葉を言わせてるだけのような気もして、満たされはしなかった。
愛してる、とか言ってみるけど。それが自分の気持ちなのかどうか正直よく分からなかった。
好きと普通の違いもよく分からない。ましてや愛なんて分かるはずもない。
私は何かを愛したくて、愛されたくて、守ったり守られたりしてみたい。これは本当だと思う。
散歩してる途中、原っぱで遊ぶ父子を見かけて、その姿に私の家族になってくれる子(空想)と、その子供の幻影を重ねてしまって、恥ずかしくなって走り去ったことがある。
昨日も想像の子供を抱っこして歩いていた。こんなのは私だけだろうか。おかしいんだろうか。分からない。なんか可愛いものを抱っこしたり、誰かに後ろからブランケットをふわってかけてもらったりしたい。
そんな満たされなさが積み重なって心に穴が空いてるのかな。
穴ぼこだらけの人間。
その中を春風が通り抜けていく。