新型コロナの痛みを経験して
はじめに
8月、久々に辛い思いをした。
例の流行病にかかったのだ。
流行が始まってから2年半あまり、うまいこと回避してきたと思っていたのに。
異常な高熱、強い倦怠感、激しい頭痛、ものすごい喉の痛み。約1週間、順に襲ってきた。そして最後は息苦しさと味覚障害・嗅覚障害の後遺症。
症状は必要な反応だと思い、できるだけ薬には頼らなかった。が、最悪の二日間だけは鎮痛剤を飲んだ。
薬の威力はすごかった。怖いくらい。
この間、痛みと辛さで何もできない3日間と、体は動かせるのに隔離のため部屋から出られない7日間を経験した。
経験は貴重だ。当たり前のこと、頭ではわかっているつもりのことでも、経験して初めてハラ落ちする。今回もいくつか感じることがあった。
なお、ここで書くことは医学や心理学に基づく科学的な知見ではなく、あくまでも一つの体験に基づく感想ないし仮説である。念の為。
痛みの増幅と軽減
痛いとき、自然と痛みに意識を向けてしまう。「痛いよー。痛いよー」と唱え続ける。
痛みが強ければ強いほど、意識は痛みに集中する。激痛の中では、それ以外のことなど考えられない。横になって安静にしていればなおさらだ。他に考えることがないのだから。
そのうち痛みに過敏になってくる。痛いところはより痛く、痛くなかったところもちょっとした刺激で痛く感じる。体をタオルで拭くだけでも、肌がヒリヒリ。
どうも、痛みに注意を向けることによって、痛みを感じる神経が敏感になり、痛みが増幅されているようだ。逆に、他のことに集中していると、いつの間にか痛みを忘れていた、なんてことは、誰しも経験したことがあるだろう。
「そうか。痛いと思うから余計痛く感じるんだ。痛みは自分で作っているのかもしれない」。そう思って、「本当はそんなに痛くないんだ」と自分に言い聞かせたら、確かに痛みが和らいだ。
子供の頃、「痛いの痛いの飛んでいけー」というおまじないのような言葉があったが、それはこのことだったのだろう。
また、試しに、人差し指と親指でできるだけまん丸の形を作り、それぞれの指先を接触しないギリギリの距離まで接近させることに集中してみた。そうしたら、やはり痛みは和らいだ。
これは以前、友達が、「歩き疲れて足が痛い時に、折り紙で鶴を折っていると、不思議と痛みが消えたんだよ」と話していたのを思い出し、何にもなくてもできる方法として思いついたことだった。
もっとも、痛みの原因が消えるわけではない。
痛みは体からの大事なメッセージ。「休め」とか「動かせ」とか。一見矛盾するようだが、感覚を研ぎ澄ませてそのメッセージの意味を感じ取り、それに従うことを忘れてはいけない。痛みそのものではなく、その奥にあるメッセージに意識を向けるのだ。
心の痛みも同じ
「痛みは自分で作っているんだな」と考えていたら、ふと「心の痛みも同じなんじゃないか」と感じた。
心の痛みというのは、辛さ、悲しさ、悔しさなど、心に負った傷の痛みがイメージされるが、寂しさ、怒り、恨み、不安など、俗にいうネガティブな感情全般に当てはまりそうだ。
そこに意識を向ければ向けるほど、そのネガティブな感情が増幅される。下手をするとコントロールできなくなる。些細なことでもネガティブな感情を抱いてしまう。悪循環に陥り、不幸な気持ちで過ごすことになる。
だから人は、自然と気を紛らせる行動をとる。つまり、他のことに意識を向けて、嫌なことを忘れようとする。逆に、それができないまま制御不能に陥ると、心を病んでしまう。
ただし、気を紛らせて忘れたとしても、痛みの原因が解消されたわけではない。体の場合と同じように、ネガティブな感情も必要な反応であり、大切なメッセージ。だから、それをちゃんと感じてあげることを忘れてはいけない。
痛みの底に何があるのか、小さなメッセージに気づき、客観的な目で見極めてあげたいものだ。感情の嵐に飲み込まれないように気をつけて。
考えてみると、逆もまた真なりだ。ポジティブな感情に意識を向けると、その感情が広がり、いろんなことに対してポジティブな反応をするようになる。好循環が生まれ、幸せな気持ちで過ごすことができる。
意識の向け方一つで、人生は大きく変わる。
何もしない経験
退職して以来、忙しさとは無縁のお気楽な毎日を過ごしてきた僕でさえ、こんなに「何もしない」を徹底したのは初めてかもしれない。
暇に任せてアマゾンプライムビデオを見まくったり、気になっていた本を読んだりもした。が、やがて飽きてくるし、体がだるいこともあって、何をしても続かない。
しかしそこには、また新たな何かが始まる可能性が潜んでいた。
次回は、これについて書きたい。
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