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死にたいくらいの苦痛に支配された時に読む自分へのメモ #もう眠感想

このnoteは、西智弘さんが主催する、著書『だから、もう眠らせてほしい』の感想文公募企画 #もう眠感想 参加記事です。

幸い、私はこれまで大きな病気をしたことがない。去年、左足首の捻挫でひどい目にあったくらいで、入院したこともない。祖母が癌で逝ったときは7歳ぐらいで、お見舞いに行った記憶もない。死に瀕した身近な人と間近で接したことがない。

だから、「苦痛の先にある死」を考えるのはとても遠いことなのだけれど、むしろ冷静な今のうちに、「いざという時のこと」と考えて言語化しておくのはよい機会だと思った。老いとともにいつか向き合うであろう《耐え難い苦痛》を前にして、自分がこのnoteから少しでも「ベターな判断」ができるように、考えをまとめておく。


ここから先は、何十年後か先の、自分へ。


①死なない理由を探せ

おそらく、世の中のさまざまな基準は「ひとは『死にたくない』のが当たり前」という前提でつくられていると思う。《耐え難い苦痛》という言葉じたい、「耐えられる限りの苦痛は全部耐えるのが前提」になっているだろう。

そんなことないと思うけどさ。でももし、これを読んでいる私が「とにかく死にたくない」と思うのなら、医療者に助けを求め、死なないためにできることを最大限やったらいい。これを書いている2020年の私は、先端医療や医学教育に興味がある。新薬の治験でも、成功例の少ない新しい手術技法でも、研修医の実験台でも、できる限り試してみたまえ。死なない、あるいは苦痛が軽減される確率が上がる限り。


そしてもし、「生きているよりも、目の前にある苦痛に耐える方がいやだ」と思うのなら。

まずは、《少し先の未来の予定》(p.181)がないか考えよう。Yくんがキャンプへの参加を目指したように。吉田ユカさんが「幡野さんのイベントに参加する」ことを目指したように。

死ぬ前に会いたい人には一度会っておこう。ひとめ見たい場所、一度は訪れたい場所。2020年の「いつかやる/多分やる」リストには30アイテムぐらいあるけど、いま、あとどれだけ残っている?

楽しみにできることがあれば、それを待とう。くまこさんが感想文の中で書いていた「死んでる暇がない」というのは言い得て妙だ。そんな風に思うかな?

苦痛が強い場合でも、ひとまずゴールが決まれば、それまでは我慢のしようがあるかもしれない。「楽しみな未来があるから、それまでなんとかもたせてほしい」というのは、医療者への具体的なリクエストにも、共通目標にもなる。


そして、「未来を待つよりも、今の苦痛の方がつらい」となれば、アクションが変わってくる。


②「死にたい」を入口として対話せよ

吉田ユカさんが《安楽死》というキーワードを切り口として西先生の門を叩いたように、死にたいという意図が、専門家との対話の出発点になる。

「医師」という属性のプロフェッショナルが、たっぷり時間をとって自分と向き合ってくれる……というのは、2020年の街中の外来待合室とかを眺める限り、確率としてはまあ低いのだろう。だから、「当たり」に出会えない場合は、はやく他の相談先を探すんだ。看護師。薬剤師。病棟で関わるさまざまな医療専門職。おそらく、2020年ごろに学部を出た医療者(医師を含む)ほど、チーム医療と多職種連携教育の恩恵で、卒前教育でしっかりコミュニケーション技術を磨いているだろう。

それに、cotreeのようなオンラインカウンセリングのサービスは、お金さえあれば確実に「聴くプロ」の時間をもらえる有効な選択肢になる。自殺を考えているなら、国際ビフレンダーズ/東京か大阪の自殺防止センターに電話してみるとか。家族と話せる状態なら、家族と。こういう話ができる友人がその時いたら、ぜひその人と。

どのみち、「軽い理由で楽に死ねる」社会には当面ならないだろうと、私はこれを書きながら予測している。

苦痛をなるべく軽減して、安らかな死を迎えていくには、コミュニケーションを重ねて色々決めなければならない、それが現実だろう。そのためのシナリオ整理は、たぶん、独りでは難しい。積極的に他者の力を借りるべし。しんどいだろう。けれどその道を、いずれ通らずにはおれまい。

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③《生への同調圧力》に注意して、《患者自身の意思》を明確にせよ

《『家族の意思』を尊重しちゃうでしょ、医療者っていうのは》(p89) という幡野さんの指摘。日本の風土/文化に固有の傾向かもしれないが、この状況は変わっているだろうか。

ともすれば、医療チーム側も、残される側も、「生きられる限り生きて欲しい」という意思で動くだろう。だから、そうではない方針を望むなら、患者である私自身の意思を、何らかの方法ではっきりさせることが必要になる。こんなふうに文章にまとめる方法もある。

幡野広志さんがいう《生への同調圧力》なんてもの、普段の私ならてんで無視するだろうけど、いざとなったらどうかわからないよ。空気。忖度。推測を事実で上書きし、確かにしていく方法は、対話しかない。

私自身が明確な意思表示をできない状況だとすれば、頼りになるのは周りにいる「私の意思を的確に推測できる人」の存在だ。常日頃から、キーパーソンと考え方を共有しておくのがいいかもしれない。これはリスク分析と同じだ。「最悪の死に方はなんですか?」


④《医療チーム》と協調して、《死に向かう判断ライン》を合意せよ

いざ死が見えてきた時、なんらかの処置(延命中止なのか、鎮静なのか、将来的には「積極的」安楽死なのか)を最適なタイミングで行うために、医療チームと《ラインを引く》(p21)ことが必要なことを覚えておきたい。

本書に描かれる吉田ユカさんのケースで、調節的鎮静(これは希望の持てる方策だ)のトリガーは《月曜日ぐらいのつらさ》(p.219)というラインに、難しい折衝の末落ち着いたが、これはけっこうシビアというか「遅い」ラインだと思う。だって「今日だけで5回吐く、意識は朦朧」なのに「数日前より今の方がまし」だから「数日前の状態までは耐えられるでしょ」って言われてしまうわけ。医療者側がすごい譲歩を見せてすら。


私は、痛いのが極端に苦手みたいだ。

たかが捻挫で丸三日眠れないくらい痛みに苛まれたし(このときは鍼灸整骨院が当たりでなんとかなったね)、電車で中山七里の小説『贖罪の奏鳴曲』を読んでいて、腿に鋭利なものをぶっ刺す描写が痛すぎて失神した(阪急の特急座席でひとり失神していて、一駅で目覚めた)くらい。

だから、苦痛に耐えられるラインは、けっこう早い段階に置かせてもらう交渉をしたほうがいいと思う。「無理して頑張ったっていいこと何一つないから」(『モットー』by 阿部真央)である。


どうやったら、死に向かう分岐点を、明確に合意できるのか、探ろう。


緩和ケアを含む終末期医療は、多職種の医療チームによって支えられているはずだ。その渦中にいる患者である私は、医療サービスを受けるだけの「お客さん」ではなく、「チームの一員」として振る舞えたらと考えている。

私の現在の本職であるクリエイティブディレクション/プロジェクトマネジメントが、能力のあるチームメンバーに最大限の力を発揮してもらうことで成り立っているように。医療の現場においても、私に関わるそれぞれのプロフェッショナルに、それぞれ良い仕事をしてもらいたい。まあ、自分が死にそうな状況で、こんなプロ患者みたいなこと言ってられないと思うけどね。


自分の死に方ぐらい、きっちりデザインしたい。たくさんの人の手を借りながら。残していくことになる人々と十分話し合いながら。「その時」がいつ訪れるのかは分からないけれど。


死という可能性を前にした将来の私へ。あなたは今、どんな選択肢を手にしていますか。


Photo by Aron Visuals on Unsplash

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illy / 入谷 聡
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