「ガンダム」という檻に囚われた鶴巻監督~機動戦士Gundam GQuuuuuuX-Beginning-”批判”~
「機動戦士Gundam GQuuuuuuX」
45周年を迎えた「機動戦士ガンダム」シリーズの最新作として、2024年の暮に突如発表された情報を目にし、
私の心は踊った。
ガンダムの新作だから?ー否
サンライズとスタジオカラーの共作だから?ー否
庵野秀明が協力しているから?ー否、断じて否
私の心を掴んだものは間違いなくただ一つの言葉だった。
「監督 鶴巻和哉」
だが悲しいかな、
この長文は、正直に申し上げて、今、流れにノリに乗っている「機動戦士Gundam GQuuuuuuX」に棹さす内容だ。
まだプロローグとなる劇場版作品が公開された段階であり、今後の展開次第によっていくらでも見方が変わる可能性を秘めている状況で、断定的な評価を下すのは時期尚早であることは間違いない。
しかし、それでも、
本作に対する、驚きと称賛のファーストインプレッションが席巻する中において、
”鶴巻和哉”という監督を愛してやまない自分の、不満と落胆のファーストインプレッションを残しておくことは無駄ではないと信じ、この記事を投稿する。
私の鶴巻和哉監督および「フリクリ」への(一方的で面倒くさい)思い。
本作の論評に入る前に、前提となる情報、乃至、
私がどのような心持ちで劇場に向かったかを皆様方に共有しておきたい。
先にも記した通り、私は鶴巻和哉監督の大ファンである。
そして監督の作品の中でも「フリクリ」は、私が最も愛するアニメ作品の1つである。
私とフリクリの出会いはあまり褒められたものではない。
Youtubeに無断でアップロードされた、第5話の切り抜き動画の再生ボタンを押した瞬間、私は”しまった”と思った。
ギターのロックなストロークと共に始まる戦い。
巨大なガンマンロボットが街を闊歩し、巨大なアイロンに近づいていく。
ロボットの上で怖気づく女子高生と小学生。
そんな2人の前に飛んでくる赤い光点、その正体はバニーガールの女性。
空からヒーロー着地を決めるテレビ頭のロボット。
ギターを片手に巨大な銃身を走るバニーガール。
銃撃、爆発、銃撃、爆発。
目まぐるしく変わる戦況。
ガンマンロボットが倒れ……その正体は”巨大な手”。
四方から狙い撃ちされ、大爆発が起きる。
大ダメージを喰らうバニーガール、
それを受け止めるテレビロボットに謎の紋章が現れる。
「ギブソンEB0 61年型!」
光の束から掴んだギターで叩きつけられた敵は吹き飛ばされ、戦いの終わりを告げるように、アイロンから大量の蒸気が吹き上がる。
この間わずか4分。
しかし、一人の人生を狂わせるには十分すぎる時間だ。
全く理解は追いつかない。
しかし、「何か凄いものを見てしまった」
それだけは疑いようのない事実だった。
そこからは一瞬である。
当時の私はサブスクサイトなどには入会していなかったので、近くのTUTAYAでフリクリ全6巻をレンタルし、その日のうちに全てを見終えた。
あの4分間の切り抜きのノリが、180分間続くとは思っていなかった私は視聴後体調を崩しかけたが、本作を通じて得た多幸感に比べれば屁でもなかった。
人生のポイントが切り換わる音がした。
フリクリを通じて「the pillows」という素晴らしいバンドに巡り会えたことにも触れなければならない。
エンディング曲のみならず、劇中のBGMや楽曲、そのほぼ全てを1つのバントが担当している。そんな作品は(おそらく)「君の名は。」以前にはなかった。
まるで全編がミュージックビデオのような本作を何度も何度も視聴した後、The Pillowsの楽曲を聞くたびに、脳裏に浮かぶのは名シーンの数々。
「パトリシア」を聞けばマバセの日常が。
「Beautiful morning with you」を聞けば、アンニュイな彼女の横顔が。
「Crazy Sunshine」を聞けば、バットを振った彼の姿が。
そして「LITTLE BUSTERS」を聞けば、去っていく彼女の後ろ姿が。
フリクリのサウンドトラック。
名曲の数々が終わった後に訪れる静寂の中で、
もう、彼女には会えない、という寂寞に包まれる。
そんな寂寞を埋めるように、私は鶴巻監督の作品を手当たり次第に漁った。
「トップをねらえ2」
「I can Friday by day!」
「龍の歯医者」
どれもこれも、素晴らしい作品だった。
(特に前2つはフリクリと世界観を共有する要素があり、往年のファンは涙することであろう。)
だが、嘆かわしや、その作品数の少なさたるや。
・・・当然だ、彼は20年弱もの間「ヱヴァンゲリヲン新劇場版」の監督でありつづけたのだから。
外野がこのような事を言うのは、鶴巻氏にとっても良くないことであることは百も承知だが、正直に言おう。
私は庵野秀明氏に対して恨みがある。
20年弱・・・
いや、おそらくもっと前から、鶴巻和哉という才能を「ヱヴァ」に縛り付け、氏をしわしわピカチュウにしたことは断じて許しがたい。
その20年弱は、鶴巻和哉氏が自身の作品を作れたかもしれない、貴重な時間だったはずなのだ。
そして、ヱヴァンゲリヲンは鶴巻和哉監督がいなければ、大ヒットのうちに完結することはできなかっただろう。
「庵野秀明氏はその功労と恩義に報い、一刻も早く鶴巻和哉氏を開放し、スタジオカラーの全精力とウン十億円の予算を付け、氏にオリジナルTVシリーズを作らせろ」
私は周りの友人に対し、この主張を10年近く熱弁してきた。
全く、なにやってんだか。
そんな私にとって、「ガンダム」の新作としてではあるが、念願の鶴巻和哉監督のオリジナルTVシリーズ
「機動戦士Gundam GQuuuuuuX」が発表された時の思いは、まさに「万感の思い」であった。
劇場版作品の公開日、2025年1月17日
日本が、世界が、鶴巻和哉という才能に驚喜する。
その確信があった。
今になって思えば、期待が高すぎたのかもしれない。
飢えて渇いた時間が長すぎたのかもしれない。
思い入れが強すぎたのかもしれない。
だが、それだけの期待をする理由が自分にはあった。
そんな人間がいたことを、知っていて欲しい。
本題の前に
ここからは本編の内容に対する批判を述べていく。
その前に1点。
本作は間違いなく素晴らしい作品であり、
アイデアやストーリー、デザインや作画等、作品を構成する要素の数々は1級品である。
今のところ、傑作と評して間違いない。
ただ、私がこれから述べるものは、それが「超一級品」にならなかった理由として考えられる要素である。
故にここにどんな内容が書かれようとも、皆様方の抱いたポジティブな感想を否定するものではない。
その点ご承知の上でご笑覧いただきたい。
またネタバレを含むため未視聴の方は閲覧禁止とさせていただきたい。
こんなものを読んで斜に構える前に、今すぐ劇場に行くべきである。
行け。
ジークアクスの課題①:鶴巻和哉の作家性と「ガンダム」の相性の悪さ
断言したい。
鶴巻氏の過去作品を見る限り、
氏は「ガンダム」とすこぶる相性が悪い。
もちろん、「ガンダム」の企画を受託し、なおかつ「機動戦士ガンダム」と同じ、宇宙世紀で作品を作ると決断したのも監督であることは百も承知である。
それでも、「ガンダム」が、氏の志向する表現の制約となっていることは、本作を見ただけでも明らかであると感じた。
その違和感は前半パート(シャアが出てくるパート)と本編パート(マチュが出てくるパート)との間にある違和感が証明している。
前半パートは1年戦争・・・人類の半数が死滅し、人が自らの行いに恐怖した戦争のアナザーストーリーを描くものである。
(そして庵野秀明がこの部分の脚本と絵コンテを切ったことが見え透いている。この点についてはいくら鶴巻監督の采配であるといえども腹に据えかねるものがあるが、ここでは触れないでおおこう)
当然、そこで描かれるのは命のやりとりである。
もちろん、富野由悠季監督の「機動戦士ガンダム」程ではないにせよ、少なくとも2つの勢力がお互いを潰し合う熾烈な戦いは表現されていた。
そして、シャアの戦争を通して復讐を果たすという血なまぐさい意思も。
だが、それらが描かれてからの本編パートでは、人の生死に関する描写が全く見られなくなるのだ。
特報で「クラバは命がけなんだよ!」とのセリフがあるが、結局、クランバトルで死人は出ていない(今のところ)。
最もその違和感が顕著に感じられるのは、難民地区に軍警が襲撃するシーンである。
逃亡したモビルスーツを探すために、雑居ビルの屋根を破壊して回る軍警のモビルスーツ。
その暴虐ぶりは主人公のマチュに命の危機が迫る程である。
況や他人をや。
そう、あの強襲によって、大怪我をしたり、命を失う難民がいても何もおかしくない、
むしろ、いない方がおかしいといった方が適切だろう。
しかし、そのような描写は、不自然なくらいに捨象されている。
襲撃シーンで難民が死亡する描写はなく、キャラクターたちが目を背けるような反応をする様子もない。翌日のTVニュースに死者・負傷者の情報はなく、あれだけの事が起こってもマチュたちの一番の心配事は次のクランバトルである。
視聴中、私は「機動戦士ガンダム 閃光のハサウェイ」の市街戦を脳裏に浮かべていた。
モビルスーツ同士の市街戦、その足元で焼け出され踏み潰される民間人たち。
逃げ惑うハサウェイとギギと共に、その無慈悲で理不尽な恐怖に慄いた方もいらっしゃるだろう。
その経験がある御仁なら、この違和感をご理解いただけるはずだ。
スペースコロニーと地球という違いこそあれ、同じ「宇宙世紀」のモビルスーツによる市街戦の描写として、ここまでの差があるのはなぜか。
それはひとえに鶴巻和哉氏の志向する表現が、人の生死を超えたところにあるからである。
上記の摘示を鶴巻監督に対する批判だと思う方もいるかもしれないが、むしろ逆だ。
「明らかに人が死ぬであろう事故や爆発を起こしても誰一人死なずピンピンして暴れまわっている」
鶴巻監督作品、特にフリクリはそのようなシーンだらけだ。
まるでギャグ漫画のように。
そしてそんな表現は、氏の作品に自由を与え続けた。
ギャグ漫画に「リアリティがない」と怒る人はいないだろう、むしろ怒る人の方がギャグである。
頭からロボットを出してもいいし、
ロボットに喰われて鉄砲玉にされてもいい
ギターでボールを打ったら大気圏突破してもいい。
イマジネーションが解き放たれた自由な世界。
我々はそんな描写を通じて「これくらい無茶苦茶なことをやっても、案外なんとかなるもんよ」という、ポジティブでオプティミスティックなメッセージを受け取るのである。
だが、
それを「ガンダム」という「リアルロボット」作品上で、
なおかつ「宇宙世紀」という、「リアルロボット」の本家本元とも言える舞台で実現することは、多大な困難を伴うことは想像に難くない。
人が死ぬのだ。
やれる無茶が限られている。
むしろこの制約の中でよくここまでやったとすら思う。
しかしその精一杯の無茶は、残念ながらフリクリのそれには到底追いつかないのだ。
結論、
「ガンダム」という作品の性質が、鶴巻和哉氏の志向する表現や、自由なイマジネーションの描写の制約となっている。
そしてこのまま、本作が「ガンダム」という世界観の枠の中で描かれ続ける以上、本作を通じて我々がトップ2やフリクリのような、圧倒的なインパクトを受けることは、残念ながらあまり期待できない。
その制約が、鶴巻監督の実力を知る自分にとって、あまりにもどかしく、疎ましいのである。
ジークアクスの課題②:フリクリに遠く及ばぬ楽曲とのシンクロ性の低さ
これも誤解のないように予め申し上げておきたいのだが、私は特に米津玄師や星街すいせい・Vtuberのアンチではない。
2人とも世界中に熱狂的なファンを持ち、今をときめく人気歌手であることは疑いようのない事実である。
米津玄師氏の楽曲で好きな曲は何曲かある。LOSERとか。
星街すいせいさんは・・・申し訳ない、全然知りません。
上の書きぶりからしてさほど興味がないこともご理解頂けると思う。
・・・いや、こんな無意味な前置きはやめよう。
変に取り繕ったところで、観劇後に劇中歌のアーティストに対し、この程度の感想しか書けない時点でもう結論は出ているのだから。
米津玄師の「plazma」を何度もヘビロテしなかった時点で、
星街すいせいの「もうどうなってもいいや」の配信を待ちわびていない時点で、
もう、とっくに勝負は付いているのだ。
申し訳ないが、鶴巻監督が2人を選んだとは思えない。
The Pillowsと違って。
the pillowsは、鶴巻監督に選ばれた。
それどころか、鶴巻監督はフリクリという作品を、自分の愛するバンドの楽曲を使いたいという目的で作り上げたと言っても過言ではないのだ。
あの楽曲とシンクロする演出の数々は、何十回、何百回と彼らの楽曲を聞いているからこそ実現できたものである。
誤解のないように申し添えておくが、私は別に本作にthe pillowsを起用しろと言っている訳では無い。
「鶴巻監督が選んだアーティストの、鶴巻監督が選んだ楽曲」でなければ、フリクリ並のインパクトは引き起こせないと言いたいのだ。
米津玄師と星街すいせい、二人の名前を見た瞬間、フリクリと同じレベルの演出やシンクロ率、グルーブ感を期待するのは間違っていたのだろう。
2人はガンダムを作って売りたい側には選ばれたのだろうが、鶴巻監督直々の指名ではないのだろう。
(もしも万が一鶴巻監督のアサインだった場合はエクストリーム土下座します)
「米津玄師と星街すいせいの描き下ろし楽曲で、フリクリみたいにエモ~くやってくださいよ」
そんなプロデューサーのしたり顔が浮かんでくる。
・・・なんの根拠もない邪推はこの程度にしておこう。
だが、「ガンダム」という多くの資本と、企業と、人間と、思惑が交錯する一大コンテンツで、
いや、一大コンテンツ故に、
「フリクリ」のような演出は実現出来なかった。
それだけは現時点の結果として、私の前に暗澹と横たわっている。
色々好き放題言ったけど動画貼るから許して。
”ガンダム”って、自由ですか?
いやもう、全然自由じゃない。
むしろ今日一番不自由な作品シリーズとすら言えるのではなかろうか。
これまで45年間積み重ねられた檻こそが「ガンダム」であり、庵野秀明氏や鶴巻和哉氏は、富野由悠季氏が去ったこの檻の中で、どれだけ暴れ回れるか、檻をどれだけ広げられるかに、その全身全霊を尽くしている。
そんな珍獣たちのドキュメンタリー映像が、本作「機動戦士Gundam GQuuuuuuX」なのだろうと思う。
そういう見方をすれば、本作は迫真の逸品だ。
だが、獣が広大な草原を自由に駆け回る姿を一度知ってしまえば、檻の中で暴れまわる姿を見ても、満足できる訳はない。
自然保護過激派のように、彼らを檻の中から開放したくなる。
(まぁ今のところ彼らは好きで檻の中に入っているので、開放したところでそこから出てくるとは思わないが)
だからきっと、フリクリに脳をぶん殴られた私が、「機動戦士Gundam GQuuuuuuX」で満たされることはないのだろう。
本作「-Beginning-」は、私にそんな諦観と鎮静をもたらした。
この長文は、畢竟、本作に対する周囲の人々が口々に叫ぶ、期待と興奮との温度差に耐えられず漏れ出た吐息である。
それでも「機動戦士Gundam GQuuuuuuX」を応援する理由
・・・いや、最後まで観ますよ。
この後を観ないなんて言ってませんって。
過度な期待はしませんが、本作は傑作になる予感しかしないのは、皆様の大多数がお思いの通りである。
「君は生き延びることができるか」
と問い続けてきた初代機動戦士ガンダムから、マズローの欲求階層を一つ登り
「君は成し遂げることができるか」という問いかけをしてくる、
そんな挑戦的なガンダムとして、今後も楽しんでいきたいと思う。
それに、ガンダムは自由じゃないかもしれないが、
ガンダムで自由を掴めるかもしれないじゃないですか。
私が本作に期待することはただ一つ、
本作が文句の付けようのないほどの大傑作となり、
鶴巻和哉の名を世界に轟かせ、
氏の名前を出すだけでべらぼうな額の投資が集まり、
可能な限り氏が自由に作品を作れる環境が実現すること。
鶴巻監督のオリジナル作品は、そんな未来が来てからでも遅くない。
そして、無茶苦茶自由奔放なオリジナル作品が、国内外で圧倒的な興行収入を叩き出す。
そんな世界が訪れれば、少しは「人類の革新」なるものに近づくのかもしれない。
なんてことを思ったりするのである。
最後に
ここまでフリクリを大絶賛しておきながら、このような事を言うのは大変心苦しいのだが、一言申し添えておかなければならない。
フリクリをまだ観ていないなら、今は観ないほうがいい。
今は時期が悪い。
少なくとも「機動戦士Gundam GQuuuuuuX」の完結までは控えておくべきである。
私のような可哀想な生き物になってはいけない。
では、ジークアクスの本放送まで何を観ればよいのか。
初代「機動戦士ガンダム」を1巡しておくのは当然として、フリクリ以外の鶴巻作品を観ておくことを推奨したい。
特に「I can Friday by day!」は必見である。
本作のキャラクターデザインを担当した「竹」氏のキャラクターの可愛らしさが遺憾なく発揮された、ポップでファンシーな”戦争”は、たった5分で鶴巻監督の実力を思い知る傑作と評して間違いない。
・・・いや合法的に観る方法がねえんだよなぁ!
ドワンゴ!特別再公開と、映像ソフトの販売を行ってくれ!Blu-rayが生産終了する前に!
頼むよおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおお!
(以下:2025年1月29日追記)
I can Friday by day!
期間限定配信開始の時間だコラァ!
偶像戦域観てないやついる?
いねぇよなぁ!!?
この2本を観た後はジークアクス2周目だ!
鶴巻和哉大勝利!希望の未来へ、レディー・ゴー!!!!
(了)