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経営権をめぐる裁判勃発―「大塚」変革プロジェクトに急ブレーキ

大塚を、まちごと変えていけるのではないかーー。

ブランディングディレクターKさんとの出会いによって、「ba」=「being & association(そこにいれば、つながりを感じる場へ)」というコンセプトが生まれたことは、大塚のまちを加速度的に変えていく契機となりました(前回)。

今回は、実はその裏で起きていた、山口不動産を大きく揺るがした事件について振り返ります。

会社の経営権を巡って親族裁判勃発

Kさんという唯一無二のブランディングディレクターの協力を得たことで、新築ビル(現在のba01・ba03)建設から、大塚を街ごと変えていくプロジェクトへと、大きな道筋ができました。

一方で、山口不動産社内は大変な混乱の中にありました。

Kさんと出会う1年前のある日、当時社長だった母宛に突然、訴状が届きました。「原告」の欄には、母に社長の座を譲ったはずの祖母の名前があります。

もう和解しているので訴状内容について詳しくは書けないのですが、経営権をめぐって親族同士で裁判が起きたのです。戦国時代でいうならば、突然、屋敷内で謀反が起こったようなものです。

祖母と母は仲が良かったので、本来ならば祖母が母を裁判で訴えることなど、まずあり得ません。

90歳にさしかかっていた祖母は、認知症の症状が出始めていましたから、母が社長の座についていることを面白く思っていない親族が、裏で祖母を操っていることは明白でした。

母は被告人となり、僕も、争点整理などに伴う準備作業に追われる日々が始まりました。

仲が良かった親族たちもバラバラに分断された

これは、単純に原告側と僕たちとの対立で終わる話ではありません。

かつては、休暇を共に避暑地で過ごしたり、記念日には何かと集まったりと仲が良かった親族たちも、この裁判によって完全に分断されてしまいました。

これまで山口不動産を先頭に立って率いてきて、一族の中心的存在だった祖母。高齢となり力を失ったことで、親族間で保たれていたバランスが急速に失われていくのを感じました。

認知症の祖母は、原告であるはずなのに、裁判が始まったこと自体よく分かっていないようでした。

裁判所での証人尋問の時。祖母はニコニコしながら、「私はね、みんなが仲良くしてくれるのが一番の望みなの」なんて話すのです。誰が聞いても、母と争っている原告が発する言葉ではありません。

高齢の祖母を前にして、親族同士で傷つけ合う。争いごととは無縁で生きてきた母にとって、これほど辛く苦しいことはなかったでしょう。終わりの見えない戦いに心労が重なり、母は精神に支障をきたしてしまいます。

順調に進んでいたプロジェクトの妨害が起こる

さらに、原告側からの攻撃は、法廷の中だけにとどまりませんでした。

ビル新築を共に進めていた竹中工務店や星野リゾート、融資をしてくれる予定の銀行、さらには、この大塚の開発に期待してくれていた豊島区長…。

原告側は、母と僕に無断で、こうしたステークホルダーに直接コンタクトを取り、プロジェクトや融資の中止を迫る妨害をしてきたのです。

「大塚を変えていこう!」と、皆で手を取り合って進めてきたプロジェクトに、急ブレーキがかかりました。

この妨害行為により、取引先からは「山口不動産は一体どうなっているんだ?」と疑念を抱かれることとなり、あらゆるところで混乱が起こりました。

それまで少しずつ築き上げてきた取引先の方々との信頼関係を、根底から崩しかねない事態です。

僕たちは、この混乱を収束させるべく奔走することとなり、次第に疲弊していきました。

断崖絶壁に追い込まれて、覚悟が決まった

もしも、この裁判に敗れたら。

母は経営権をはく奪され、僕の居場所もこの会社には無くなるでしょう。
そして、大塚を街ごと変えていくーそのチャンスも、もう巡っては来ないでしょう。

ここで負けたら、祖母との約束を果たすこともできないまま、何も成し遂げられずに人生が終わるかもしれない。踏み外したら後がない、断崖絶壁に追い込まれたような心地でした。

山口家にとって、僕は直系ではない、いわゆる「外孫」です。

僕がいなければ、裁判は起こっていなかったかもしれない。僕がいなければ、山口不動産はどこにでもある不動産会社としてやっていけたかもしれない。

でも、こんな理不尽な裁判や常軌を逸した妨害行為によって、かすかに見えてきた大塚の希望の光が失われてしまうのは、どうしても許せませんでした。

絶対に負けたくない。いや、負けられない。

山口家の先祖からも「お前にやらせて本当によかった!」と思ってもらえる、圧倒的な結果を出さないと。

そう、覚悟が決まりました。

悪目立ちしたくないから、可もなく不可もなくのレベルで仕事をしていた自分。面倒な軋轢を起こしたくないから、年長者や立場が上の人にどこか遠慮していた自分。

もう、そんな生半可な自分とはサヨナラです。

裁判の戦い方など、もちろんまったくわかりませんでしたが、弁護士と何度も膝を突き合わせて徹底的に考え抜き、原告に対する反論と証拠を積み上げていきました。

崩れかけた取引先との信頼関係を回復させ、プロジェクトを再び軌道に乗せるべく、プロジェクトに尽力してくれていた関係者に、丁寧に状況を説明してまわりました。

裁判に負けたらどうしよう。プロジェクトが頓挫してしまったらどうしよう。そんな不安と恐怖が押し寄せ、眠れない夜も何度もありました。

一方で、図らずも、絶対に負けられない戦いに身を置かれたことで、自分のやるべきことが明確になり、思考はどんどんクリアになっていきました。

ここまで真剣に、仕事と会社そして自分に向き合い、必死で考え動き回ったのは、人生で初めてのことでした。

うつを患った時に抱えていた、何事にも熱中しきれない自分へのモヤモヤは、いつの間にかどこかへ消え去っていました。

訴状が届いてからおよそ2年を経過した2018年初頭、和解することで裁判は決着を迎えました。僕が大好きだった祖母も、親族間の争いが終わって安心したのでしょうか、この年の秋、静かに息を引き取りました。


しかし、原告側が起こしたプロジェクト妨害行為は、実はあるところにも甚大な影響を及ぼしていました。

総額50億円を超える、このプロジェクトへの全額融資を約束してくれていた銀行Aが、融資を「白紙撤回する」と言ってきたのです…。

次回に続きます。

大塚のまちをカラフルに、ユニークに

大塚が変わるプロジェクト「ironowa ba project(いろのわ・ビーエー・プロジェクト)とは?(▼)

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