寄席についてのお勉強(その1)
NHKの大河ドラマでは次の一万円札の肖像に取り上げられる渋沢栄一が主人公として活躍するようだが、その四男で田園調布の生みの親で戦争中は東宝の会長を務めた秀雄が1944年の夏に二夜続けて上野鈴本、人形町末廣に通った時のことを「演劇界」に書いている。
これが滅法面白い。いずれも開演から終演ほぼ全部見ている。
本来は両夜とも「末廣」の予定だったようだが、初日は休席で市電で「鈴本」に向かった。到着は午後五時半で夜席の仲入少し前だったようだ。
休憩室で若い男達が煙草を吸っていたので、休憩かとおもって入場すると高座には新内の「宮古太夫」(手元資料では特定できず)が上がっていて、次は馬楽(後の林家彦六)の『二十四孝』、ついで一龍斎貞鏡(後の一龍斎貞山、いわゆる「お化けの貞山)の『前原伊助』、一徳斎美蝶の皿回し、春風亭柳朝の噺と踊り、二代目三遊亭圓歌(いわゆる「小紋」)の新作落語、この辺りで仲入ではないかと思うが、触れられていない。初代柳家小はんの百面相が食い付きかも知れない。ちなみに小はんはWikiでは1925年に「落語革新派」解散以後は消息不明とあるが日本芸術協会(後の落語芸術協会)でうろうろしていたのではないか?
二代目と三代目の間の代数に加えられていない三遊亭圓窓が出て、六代目立川談志の落語と大津絵の踊り、日出丸ショウ(これは不明)、で留さん文治の『笊屋』、古今亭志ん生の『もと犬』。トリは登美子・喜美子の音曲だが、田園調布の自宅に帰る為に聞かずに出た。
二晩目は「末廣」で、始まったばかりの高座に留さん文治が出て『笊屋』をやっている。渋沢秀雄はこの早い時間に文治が出ることを訝っているが、現在と同じ仕組みならば「末廣」と「鈴本」の掛け持ちをやっているので、もう一、二軒どこかを廻るのではないか?あるいはお座敷でもかかったのか……。
次は小はんで『時そば』の改作と百面相。音曲で「小歌」、「柳なんとか」(めくりの文字が図案風で読めないとのこと)の噺と踊り、次は剣舞の源一馬、この人のことは様々な文献で見るが舞台を見たかったなぁ……。
次は桂右女助『水道のゴム屋』、文楽『酢豆腐』、美蝶皿回し、小三治『代書屋』おしまいは大喜利で
翁家さん馬(後の九代目桂文治)
五代目古今亭しん橋(後の十代目金原亭馬生)
八代目桂文楽
九代目柳家小三治(後の五代目柳家小さん)
六代目立川談志
六代目春風亭柳橋
等七人とあるが七人目は誰なんだろう?
が居並んで、折り込みリレー落語で打出し。
ちょっと驚いたのは渋沢が「戦時色や教訓のないのに我が意を得た」と書いていることだ。確かにこの出演者と演目には普段の寄席と特に変らない。だが、戦後公職追放された東宝の会長が昭和十九年夏に一般に発売される雑誌でこのようなことを公表できたというところに「国策落語」「国策漫才」で国に協力したと言うのが俄には信じがたい。
もう一つ「下足の解決法を考えたが(中略)非常口だけでも拡張して貰いたい。空襲は不意にこないとも限らないから……」と書いていることだ。戦前はおそらく全ての寄席が畳敷きで必然的に履物を脱がねばならない。これは空襲の避難にとっては大きな欠点だ。この年は本土空襲はほとんどなかったとは言え実効性がある対策はほとんどされていなかったことが分かる。
戦時中の寄席の様子についてはこれまであまり知られていなかったので全文を引用したいが没年の関係で著作権が有効なので、興味がある向きは国立国会図書館/図書館送信限定資料が読める図書館で参照して欲しい。
ああ、原文をテキスト化するのと、この文章を書くのに正味八時間ほどかかってしまった。