寄席についてのお勉強(その3)
新日本紀行「浪華芸人横丁 大阪天王寺 山王町」
NHKBSプレミアム
2021年3月21日放送
初回放送1971年4月(←やや疑問が残る)
寄席演芸についていろいろ調べているが、東京のそれで手一杯で、上方演芸には眼をつぶるつもりでいた。でも、ちょっと気になって録画した。
芸人の同定に少し苦労した。
通天閣にほど近い大阪天王寺山王町は大阪の下町だ。ビル化が進んだため、瓦屋根の長屋が連なる場所は少なくなっている。そこに芸人横町と呼ばれた一角がある。漫才師勝浦きよし・小夜子さん夫婦(後のファミリートリオ2005年まで活動)、曲芸師の東洋小勝(1990年代まで大須演芸場にいた)、漫才師小松まこと・あけみ(後ろ面踊りが持芸、2000年頃まで現役)など七十人を超える芸人が住んでいる。
「(松鶴家)団之助芸能社」は全国の興行師から発注を受けた仕事を芸人に割り振る芸能社だ。戦後、松鶴家団之助がここで芸能社を始めたことから戦災で家を焼かれた芸人達を呼び集めた。以来二十五年芸人長屋は上方の芸能の歴史とともに生きてきた。
浮世亭出羽助(当初、八丈竹幸で夫婦万才。竹幸は1969年物故)・青柳かねこ(元は青柳房夫・兼子で戦前は吉本に所属)は当時、相方を亡くし、或いは病気でコンビ別れをやむなくされコンビを組んで団之助の世話になる。
平和ラッパも五年前まで芸人横町に住んでいた。月に二度この横町の床屋(「高原」)にやってくる。この長屋の三畳一間の二十年間が自分の芸を磨いたとラッパは言う。
床屋には「ラッパ・日佐丸(二代目)」「海原お浜・小浜」「中田ダイマル・ラケット」「若井けんじ・はんじ」などの写真が飾られている。いずれもこの長屋に住んでいた。
二代目砂川捨丸(砂川菊丸)が出て来るが、ちょっとこの事情は分からない。Wikiによれば初代捨丸は「1971年(昭和46年)に引退を表明し、同年11月、角座で引退興行を予定していたが、10月12日に心筋梗塞で急死。80歳没。」とある。
一方、二代目の方は「1971年に初代捨丸が没したため復帰を勧められたがほとんど活動せずその後照代が亡くなり菊丸は一人身になり、ひっそり過ごしたのち亡くなった。」とある。
冒頭に、この番組の初回放送は1971年とあるが、11月に初代が亡くなるまでは、菊丸が二代目を名乗れるはずはない。しかし、この番組では「二代目砂川捨丸」とナレーションが入っている。
取材時期は1970年の秋・冬ではないかと思う。それは服装で推察できる。となると二代目捨丸はありえないし、1971年だとしたら初代の死に触れないのも不自然だ?
漫才師小唄志津子(当時夫の広多成三郎と広多シズエで夫婦万才)が地方巡業中、飼っているペット(犬や鳥、小動物など多数)の世話を同業の林美津江(立花幸福・林美津江の夫婦万才)が見ている。長屋住まいはお互い様だ。
この後出て来る妻に頼まれて買物に出掛ける広多成三郎と小唄志津子が夫婦であることはなぜか伏せられている。
芸人達の生活スケッチとして次に出てくるのは万才の本田恵一・玉木貞子だ。息子が製版工場に就職するのを芸人仲間と祝う。
次は佐賀家喜昇・旭芳子でナレーションでは「おとろしや喜昇」(めくりは佐賀ノ屋だが、テロップは「おとろしや喜昇・芳子」)と紹介されている。初めてテレビに出るという場面で一瞬、花菱アチャコ、ミヤコ蝶々が映る。この出演はどうもやらせのように思える。テレビから無茶な尺(実演の長さ)を要求され、それに合わすことが出来ない「時代遅れの芸」を強調するために無理矢理NHKの演芸番組に押し込んだのでは無いか?最悪、放送しないで収録だけでも良いという判断で。「テレビナイトショー」という番組のようだ。
「ここで認められれば四つの小屋を掛け持ちした昔の人気を取り戻せるかも知れないと考える」というナレーションもあざとく、残酷だ。結局、本番では五分しか尺をもらえなかったと言うが、R-1じゃないんだから、いくらなんでも当時で五分はないだろう。これではさらし者だ。
現在の芸人横町の追加取材では「この二階に人生幸朗さんがいて、それで隣に(海原)お浜・小浜さんがおられた」「ここに平和ラッパさんがいた」という古くからの住人の声が聞かれた。
昔「団之助芸能社」だった家には団之助の孫が今も住んでいる。「笑」の額の横にある「大銀座落語祭2006」の団扇が懐かしい。もう15年も前のことだったのか。
この番組は資料的価値が高いが、底に流れている「芸人を低く見る視線」がどうも気になる。
オリジナルの動画がyoutubeにあった。
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