芸術のわかる・わからないの話

トルコ至宝展に行った。

感想は「チラシの画像、めっちゃ加工してんな~」だった。だってあそこまでキラキラしてない。宝石がふんだんに使われてはいるけど、経年劣化でくすんでる。歴史あるものだから仕方ないとはいえ、自分の顔が映るほどピカピカしてるのかと思っていた。期待してたものとはちょっと違ったし、わたしは立体物より絵の方が見るの好きだなぁと思った。それは良い気付きだった。

「土器に模様を付けたり壁を絵や文字でびっしりさせた昔の人はただ単に暇だっただけなのではないか」と松尾スズキがエッセイで言っていたけど、これもそうなのではないか。トルコ至宝展の展示物たちはしっかり仕事として賃金を払って作られたものだろうから、暇という言い方は違うかもしれないが。あそこまでびっしりと宝石を埋め込んだり端から端まで刺繍を施したり、現代より娯楽が少ないであろうあの時代だからこそ出来たことなのではないかと思う。職の選択肢が今ほど無かったのも理由なのか、よく見れば所々雑なところに「お仕事感」が出ている気がする。感じたことといえばそれぐらい。図録も買わず、全然関係ないミュシャのポストカードを数枚買って美術館を後にした。

「ザ・スクエア 思いやりの聖域」という映画で「君の持っているその鞄を美術館の一角に置いたとして、それはアートだと思うか?」みたいな問いかけがあった。さも意味ありげに置いてあって、それを見てる人が「わかる」みたいな顔してたら、わたしも同調して「わかるフリ」をするかも、と思っていた。けど、今回の展示でわかった。わたしは「わかるフリ」も出来ない。「え、鞄置いてあんねんけどなんでなん」ぐらいで通り過ぎるな、と。

アートに対して「わかるフリ」をしてる人って実はすごく多いんじゃないか。わざわざ遠出して見にきたのだから、せっかく入場料を払ったのだから、何かを感じなければもったいないと思い込んではいないか。少し前のわたしはそうだった。何事も等価交換でなければならない。アートを見ることに対して払った労力やお金は「感銘を受ける」以外に等価交換の意味をなさないと思っていた。今は違う。今のわたしにとってアートはわからないものだらけだ。でもそれでいい。「自分にはよくわからないことがわかった」だけで見た価値があるというものだ。逆に全く興味がなかったものでも実物を見たら考えが変わることもある。何事も触れてみなければわからない。自分がそれに興味が抱くか抱かないのかさえ。

背景を聞けば「あっ、なんかスゴイ」と思うものはたくさんある。けどそれは物珍しさやエピソードに感動してるだけであって、直感で「好き!」と感じた作品には敵わない。その直感の「好き!」に出会うために美術展に行く。出会えないかもしれないけど、そこに何かしらの気付きはあるし、わからないなりに思考をめぐらせることに意味がある、きっと。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?