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祖父の話

今日は妹と祖母と一緒に、祖母の故郷である栃木県間々田に行きました。

画像からも分かる通り、間々田は一面に田園風景が広がる、のどかな町でした。
また、本日5月5日は子どもの日ですが、間々田には毎年この日に行われる「じゃがまいた」というお祭りがあるそうで、町中でも運良くそれらしき風景を見ることができました。
(田植えの時期を前に五穀豊穣や疫病退散を祈願する祭りで、子供たちが龍と蛇を模した長い棒を持ち、町中を練り歩くそうです)

私の祖父母は、父方の祖父は私が生まれる前に亡くなっていて、祖母の方も物心がつく前に亡くなってしまったので、私にとっての「おじいちゃんおばあちゃん」は主に母方の祖父母でした。

母方の祖母は今も健在で、私の家と祖母の家が近いこともあり、しょっちゅう行き来しては食事をしたり、遊びに行ったりしています。
そして、祖父は私が高校生の時に亡くなったのですが、今でも私の中にたくさん思い出が残っている、魅力的な人でした。今回はそんな祖父について書きたいと思います。

祖父はかなり旅行好きで、若い頃はいろんな土地を巡ったらしく、祖母の家には旅行先で撮った写真がたくさん飾られています。
また、カメラも趣味で、いつも孫の私たちの写真を撮っては大きなサイズで現像して、立派な額に入れて飾ってくれました。さらに、祖母とペアを組んで社交ダンスも嗜んでおり、賞状が多数残っていることから見ても、なかなかの実力だったようです。
こうして挙げてみると、本当に多くの趣味を持ち、充実した生活を送っていた人なんだなあ、と改めて思います。

性格面では、少しひねくれ者で、江戸っ子気質な人だったみたいです。その影響かは分かりませんが、家族で何かおいしいものを食べる時に、箸で掴んだとっておきの食材(ステーキ等)を、全員の目の前を通るように一周させて、見せびらかしてから食べるということをよくやっていました(意味こそ分かりませんが…笑)
食にはこだわりがある人で、家に遊びに行くと、どこからともなくお気に入りのお菓子を出しては食べさせてくれました。あと、なぜか生クリームのことを「あぶく」と呼んで、好んで食べていましたね。変な部分も多い人でしたが、だからこそ印象に強く残り、私はそんな祖父が好きでした。

祖父が甲状腺にガンを患ったのは、確か私が高校生になったばかりのころでした。病気が分かってから初めて会った時は、既に食べものが上手く飲み込めなくて、お粥やゼリー中心の生活になっていたようです。痩せた姿で、「おじいちゃん、こんなふうになっちゃったよ」と笑った顔があまりに寂しそうで、思わず涙が溢れました。祖父が入院したのは、それからすぐ後のことでした。

祖父の入院中は、私や妹が共に部活動で忙しかったことに加え、病院が遠かったこともあり、ほとんどお見舞いはできませんでした。1回だけ家族でお見舞いに行った時、祖父は個室に移っていて、恐らくかなり病状が悪化していたのだと思います。

両親から、祖父の外見について「ショックを受けるかもしれない」と言われていて、覚悟はしていたつもりでしたが、それでも衝撃は相当のものでした。経口の食事が取れなくなって、喉にチューブを繋がれた祖父の姿は、まるで知らない怖い人のようでした。きっと祖父もそのような自分の姿は見られたくなかったはずです。それでも、祖父は「来てくれてありがとう」とお礼を言い、私たち2人と握手を交わしてくれました。私と妹はひどく泣いていて、祖父の顔は見られなかったけど、その手の力強さと暖かさは、今でも覚えています。祖父に会ったのはその日が最後で、それからほどなくして、祖父はこの世を去りました。

今でもこの時のことを思い出すと、祖父にきちんと向き合えなかった自分を情けなく思うほろ苦さと共に、祖父にまつわる様々な思い出が色鮮やかによみがえります。

昔、私の尊敬している人が「何かが失われたとき、残された人には、それがどれだけ素晴らしかったか語り継ぐ義務がある」と教えてくれたことがありました。だからこそ、取り留めのない家族の話ですが、少しでも書いてみようかなと思った次第です。最後まで読んで下さり、ありがとうございます!

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