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花束は、美しいから感動するのでしょうか?
花束は、お年玉やお香典や引出物や感謝状やなんかのように、特に思い入れもなく形式的に贈られて、特に感動もなく受け取られる場合も多いと思います。
でも、そうでない場合もあると思います。
花束が、何か特別な意味を持って、強く感情が高まる時があると思います。
それはどういう時で、それは、なぜなのでしょう?
花束は、実用的な物やお金などの贈りものと、どう違うのでしょう?
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花束は、生きていたものを切り取って、準備されます。
時間がたつにつれて、しおれて、かれてしまいますので、新鮮なうちに手渡されます。
まだ新鮮な、鮮やかに肉厚のある花束を見ていると、うっすらと、少しの間ですが、切り取られて来たんだなと、思うことがあります。
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いつだったか、花束を見て、「生贄(いけにえ)」という言葉を連想したことがあります。
何かに似ているなと思っていて、今ふと初めて思いあたったのですが、『わたしを離さないで』というカズオ・イシグロさんの小説を読んだ時の感じに似ているかもしれません。
臓器移植を必要とする人のために、臓器の提供者として生まれて育てられているクローン人間たちに、花束用の花は似ているかもしれません。
それからさらに連想で思い出したのが、『ちいさいモモちゃん』という松谷みよ子さんの児童書です。
モモちゃんが生まれた時に、ジャガイモとニンジンとタマネギがカレー粉をしょってたずねて来る場面がります。
お母さんが「まだ、まだ、まだですよ」と、生まれたばかりの赤ちゃんはカレーを食べれないことを伝えると、ジャガイモたちはしょんぼりして帰っていきます。
子供に読んであげながら、お祝いに自分たちが食べられに行くということに対して、この子はどう感じているんだろう、と思った記憶がります。
子供はだまって聞いていたと思います。だいぶん昔のことなので覚えていませんが、ちょっと笑っていたかもしれません。
そのまた連想で、手塚治虫さん の『ブッダ』という漫画の中で、ウサギが自分で火の中に飛び込んだという話を思い出しました。
空腹で倒れている僧のために、自分から食料になったのです。
これらの連想のイメージを大きくまとめて、「生贄(いけにえ)」と名付けることにします。
そして、乱暴なごじつけですが(もしかしたら、まったくの見当はずれでもないと思っているのですが)、花束を見て感動している時に、「生きていたものを切り取って」来たということが、無意識のうちに、「生贄(いけにえ)」を連想させているのではないでしょうか?
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人は本能的に、「生贄(いけにえ)」的なイメージに対して、強い感情が生まれると思います。
手塚治虫さんはウサギで衝撃的に残酷に、カズオ・イシグロさんはクローン人間で悲しく切なく、松谷みよ子さんはジャガイモでユーモラスに、「生贄(いけにえ)」の効果を使って、忘れられないような強い場面を生み出したと言えるのかもしれません。
深夜に流れているNHKの高画質な自然の風景は、とても美しいと思います。
客観的に見ると、あらゆるテレビ映像の中で、最も美しいと言えるのかもしれません。
でも、あんまり、強い感動はありません。
それは、お年玉やお香典や引出物や感謝状やなんかと同じように、形式的だからかもしれません。