白川文字学から考える新元号令和
まず昭和についていえば、白川静氏はよく昭和の「和」は字源的にいうと、軍門において講和する、という意味であるといっていました。あまりめでたくない字であると。
(たとえば「文字講話〈4〉」(92ページ) 「桂東雑記 4」(184ページ))
一方昭は字統によると召が初文で「神霊が降るのを召という。」(字統)とのこと。
悪い字ではないと思いますけど、私が勝手に解釈すれば、和と併せて降伏が天罰として降ってくるという意味になるかもしれない。また、現人神の転落になぞらえられるのかもしれないし、なんといっても元の字が召使いを表す召です。アメリカの召使のような現状を思わざるを得ない。
白川氏の解釈の一方、従来の字源説に従うとどうなるか調べると、昭は説文解字によると「日明らかなり」という意味らしく、つまりライジングサン。
「和」は説文解字には「相ひ應(こた)ふるなり」とあり、これは五族協和、八紘一宇といった方向性を示すとも解釈できる。日本を象徴する字として入れたともいえるでしょう。
つまり昭和の帝国主義的な意味が込められて選ばれたのだと思います。
皆はそのように思って付けたのだろうけど、白川静氏は独自の文字学によってその字源説を否定して真の意味を明らかにした、それが和を乞うという意味であった、実際にそのようになった、という意味を込めてこのようなことを言っていたに違いありません。
今回も同じく「和」が入っていることで似たような意味を帯びているともいえる。
令と昭の字源も比較的似ているように感じる。
令はひざまずいて「神意を聴く神官の形」(字統)とのこと。降る側から聴く側に回ったんですね。
アメリカに貿易戦争を仕掛けられている現状で縁起でもないという気持ちもある。神意がアメリカ(や中国)の意でないことを祈るばかりだ。
ただし字源を別にして和という字自体はとても良い意味を持っていますし、令にしても天意を意識した時代にできるのであれば立派な時代になるだろう。そういった良い意味を引き出して、未来へ向かっていければ良いのではないかと思っています。
和については字統で「『中庸一』に(中略)とあって、和は最高の徳行を示す語とされている。」(字統)と解説されています。
結びに「漢字百話 」((中公文庫BIBLIO) 96ページ)の「令」の項目が綺麗な文章なので丸々引用しましょう。
自然的生のなかでは、生きることの意味は問われていない。その意味を問うものは命(めい)に他ならない。命ははじめ令とかかれた。礼冠を著けた人が跪いて、しずかに神の啓示を受けている。おそらく聖職のものであろう。その啓示は、神がその人を通じて実現を求めるところの、神意であった。後にはサイをそえるが、その祈りに対して与えられる神意が命である。生きることの意味は、この命を自覚することによって与えられる。いわゆる天命である。『論語』堯曰篇に「命を知らずんば、以って君子たることなきなり」というのはその意である。当為として与えられたもの、それへの自覚と献身は、その字の形象のうちにすでに存するものであった。
(白川静氏が平成という元号について語った「新元号雑感」を収録)