僕は口笛が吹けない
せかせかと日々の用事を済ませてみれば、一体どうしてと頭を抱えたくなるほどネフライトのネックレスが傷ついていた。余りに可哀想だったので、いつものごとく作者さまに直せないかとお伺いを立てたところ、迷うことなく快諾してくださった。わたしの悪いところはすぐ調子にのるところで、迷うことなくちっちゃいメノウと「石笛になりますか?」という紙切れも封筒に滑り込ませた。
数日の後、作者さまから「小さいから…」とメノウは石笛になれない報せを受けた。いえいえごめんなさい了解ですとパタパタ返事はしたものの、内心はしんみりというかしょんもりというか。ただ薄いヴェールのように残念だなぁという気持ちが体の周りから離れなかった。
また幾日かして、待ちわびたネックレスが戻ってきた。御礼を長々述べると、作者さまは「一粒のメノウは?」と。はいありますけど?見て。あ、お待ち下さい?
あーーーーーーーーー!!!!!
「石笛!あ!高い音!え、だって出来ないって?!」
そこから先のやりとりは正直覚えていない。とにかく驚いて、とにかく嬉しかった。ちゃんと御礼を言えたかも怪しいほど、ただ仔猫を抱くように石笛を両手で包んでいた。ぴょんぴょん跳び跳ねるわたしを、三毛が悟ったような表情で見つめていた。
わたしは口笛が吹けない。カスカスになってしまう。川縁でトランペットも吹けない。そもそもトランペットを習ったことがない。でもわたしには石笛がある。泣きたい夜に嗚咽を堪えるより、石笛を吹いていたほうが心はより悲しみを感じる。時として痛いほどに。それはわたしにとって何より必要なことで、純然たる悲しみは時として文学になり得ると勘づいている。そして天気の良い日にベランダで小さくポプポプ鳴らすのもよい。風が体を透過していく感覚に石笛の音が混じり、一瞬己の存在が消えてしまう。
たまんない。
道端の小石を拾って集めていた幼少期のわたしは、大人になったら同じように石が好きなお友だちができ、そのままずっと石を好きでいて大丈夫なのだと安堵する。石笛も手にすることになったけど、そこまでのプロセスがまた面白いというか、この生は癖があるなぁと思った次第。
何だか日記になってしまってごめんなさい。
磨かれて品よき艶のまた軽くさても芳し月下の雫
(短歌。見出し絵の石笛に寄せて)
作者さま。オリジナルオーダーもお得意で、繊細かつ大胆に彫られたり、あでやかさを誇るように磨かれたりと多彩。石の匠です。
TOHZIN'S GALLERY #minne https://minne.com/@tohzin