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不必要に見えるものが形作る「味」のようなもの。
先日、公園の入り口で落ち葉を集める方がいた。
8割近く葉が落ちた公園の中で、竹熊手を使い
ザアッザアッと音を立て、落ち葉をひとつの
場所へと集めてはゴミ袋へ…
とその瞬間強い風が吹き、今綺麗にした場所へ
頭上からはらはらはらっとまだ残る葉っぱたちが降ってくる。
次の瞬間、
「もお〜〜〜〜」
という声が聞こえて思わず笑ってしまった。
それがただの落ち葉と風だとしても、
相手はこの地球で最強のもの、自然だ。
降り積もる葉っぱ全て、取り切れるものではない。
それに、落ち葉が積もるくらいの公園の方が
風情があって素敵だ、例えそれが不必要なもので、
公園の外へ飛び出していってしまっても。
人間も公園も、完璧に整ったものでないほうが
魅力的に感じるということはあるはずだ。
誰かから見て一見不必要なものでも、
それがあるから魅力的に感じるということも、
沢山たくさんあるものだと、ふとそんなことを考えていた。
落ち葉そのものは不必要なものかもしれない、
風が吹くとあちらへこちらへと飛んでゆき、
苦情が来ることもあるのかもしれない。
けれど考えてみると、秋や冬のはじめに、
落ち葉ひとつない公園なんて、なんだか風情が
ないように感じてしまったりする。
たっぷりと茶や赤や黄色の落ち葉が積もって、
しゃりしゃりと音を立てて踏み歩けるくらいがいい。
人間も同じように、自分で自分を見つめた時に、
こんな部分は必要ない、自分にとって不必要だと
そんなふうに感じる部分は沢山あるだろう。
私にも、それこそ落ち葉より降り積もるほどある。
あれもできない、これもできない、あれもない、
これもない、こんなことができても役にも立たない、
何も内面の問題だけでもない、外見も同じだ、
こんなところにホクロいらないんじゃないか、
なんてことまで沢山たくさん、あるだろう。
だけど例えばそれらが不必要なものではなく、
春に散り落ちる桜の花びらのような、夏の海の匂い、
秋の落ち葉、冬のツンと冷たい空気のような、
そんな存在だとしたら。
四季にわずかな彩りを添えるような、そんな存在だとしたら。
一見して誰かや自分にとって不必要に見えるそれらが
風情や人間味、安らぎや親しみのようなものたちを
もたらしているのではないか。
そしてその小さな風情や人間味や親しみ安らぎが、
美しさや魅力、人それぞれが持つ、
いわゆる「味」のようなものを作り出しているのではないか、そんなふうに思った。
ならば私の、この心の奥底にある底なし沼も、
傷跡もホクロも、味になっているのかもしれないな。
落ち葉集めを見ながらそんなことをふと考えた、
ある日の午後の話。
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大量に載せたお気に入りの1枚、葉っぱの絨毯の階段。
それではこの辺で。
今日も1日おつかれさまでした。
最後まで読んでくださってありがとう。
また気が向いたら、来てくださいね。
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