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36歳にして初めて親の愛に気づいた話〜親ワーク〜

ありとあらゆるものをナメ、スカし倒しながら生きてきた私。
ついにそれがクソダサいし余裕ぶってるのがバレているかもしれないのと対峙するの巻。

私が入っている小田桐あさぎさんの講座で行われた
通称「親ワーク」。
正確には親ワークのシェア会。
 
 
すごかった。
みんな真摯に、自分の中の様々な否定の声とも対峙しながらも、親の愛を見つけていっていた。
 
親のことを多面的に見て、子供の頃の自分にはわからなかった面を知る。
その面から、親の愛を知る。
 
みんなで「でもこうじゃない?」
「こういう風にも見れるよね」
「そのおかげでこうだったじゃん」
っていう集合知で
「ほんとだ・・!」って愛を発掘していくのはものすごく美しい光景だった。
 
 
でもここで気付いたのだ。
 
スカし太郎である私は、「大丈夫っす、私、これで」みたいな
スカし倒した視点しかまだ持てていないことに。
 
 
私のリフレーム(視点を変えて見てみること)は、
「母に愛して欲しかった、私の幸せを一緒に喜んで欲しかった、
嫉妬しないで欲しかった、褒めて欲しかった」を
 
「母も愛されたかった、可哀想な人だった。
母も死ぬほど頑張っていたからそんな余裕はなかった。
誰よりも褒められたいし愛されたかったのは母だったんだ。
結局今でも母からの愛はわからないけど、
今私はコーチングをしていて、人を褒めたり寄り添ったりすることに喜びを見出しているから、
母は私の人生で役割はすでに終わっているんだと思う」
 
と伝えた。
なんだこれは。
と今思い返したら思う。
 
 
他のみんなは心を全裸にして見せてくれているのに、
こちとらまだコートを羽織って自分を守っている。
 
「取り乱しませんよ、これしきのことでは」ってドヤ顔をしている。
みんなのあまりにも大きな転換点を見ていながら、
スカして、ドヤって、
「私は平気です。もうそこは抜けているので」みたいな顔をしている。
 
そんなの、ワークも、講座も、参加者も、みんなをナメている。
この講座に人生をかけて、今涙している目の前の人も、私は全部ナメているんじゃないか。
 
自衛のことばかり考えて。
どう見えるか、どうしたらダサくないか、そればかり考えて。
自分の安全圏から出ようとしない。
ここまで来ているのに。
 
なんだ私クソダサいなと思った。
 
 
だから放り投げてみた。
ちょっと時間が余り、「どうしようか」となった瞬間に、
「私、母の愛がどうしてもわからない。みんなみたいにリフレームして愛を見つけたい」
と言ってみた。
 

続きはブログで
https://irohakataru.com/oyawork/

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