韓国・済州島に眠る旧日本軍施設
異物を宿したまま、人々は痩せた大地を黙々と耕した。その間、半世紀あまり。今や一面に豊かな実りを見せる緑の園は、まぎれもなく農民たちの汗の結晶である。
時を経れば歴史の風化は免れないが、異物に張りついた過去がたやすく風景に溶け込むこともまたありえない。戦争の遺構とはそういうものだ。
韓国の南海上に浮かぶ麗しの島、済州島。その南西部大静邑(テジョンウ)に広がる広大な平野に、かつて旧日本海軍が建設した航空施設の遺構が点々と残され、一種異様な光景を形作っている。
農地の只中に散在するカマボコ型の構造物がそれだ。いずれも分厚いコンクリート造りで、形状からして戦闘機を空爆から護るための「掩体壕」であったことがわかる。
その数、およそ20。ほぼ完全な形で現存し、農家の物置などに使われている。
この遺構の存在については、地元の住民以外、国内でも長く忘れ去られていたようだが、光復50周年(1996年)に発行された韓国空軍の調査報告書によって初めて明らかにされた。
綿密な現地調査と関係者からの聞き取りによって構成され、史実を知るうえでもきわめて資料性の高いものとなっている。
同書によれば、旧日本海軍がこの地に建設した飛行場は「アルドル飛行場(別名 大村飛行場)」と呼ばれ、1926年に着工したという。当初は20万坪の計画で滑走路や管制塔が整備され 、37年以降、80万平にまで拡張された。そして佐世保海軍航空隊2,500人が配備され、南京渡洋爆撃など中国大陸への航空作戦の拠点となった。
現在残っている掩体壕は大戦末期近くに造られたもので、強制労働に駆り出された地元住民が一人乗り用の神風号のために造ったと証言している。
現在、この界隈に観光客はむろん皆無。ゴルフやカジノ目的でやってくる日本人にとっては、こんな遺構が残っていること自体知るすべもない。だが、実は観光客の集まる景勝地であっても、崖の至る所に人工洞窟を確認することができる。
大戦末期、米軍の上陸に備えて関東軍約7万5,000人が配備され、全島要塞化が進められた痕跡に他ならない。
ただ幸運にも、この島が米軍の空爆にさらされたのは数えるほどで、日本軍は敗戦と同時に帰還。しかし一方で、このとき山中に隠した弾薬類が、その後、この島最大の悲劇となった「四・三事件」で使われたことは周知の事実である。
かくしてこの島には、侵略者側の悲惨な末路が刻まれていない。それがグアムやサイパンなどの南洋諸島と決定的に異なるところだ。
しかし、だからこそ、かつての植民地活動の愚挙をこれほど淡々と伝えるところは他にない。
(初出:『週刊金曜日』1999年8月6日・13合併号(No.278)
※当原稿の内容、および掲載写真は1999年のものです。したがってこのエリアの風景も大きく変わっているかもしれません。その点はご容赦願います。
※歴史認識などに事実誤認がありましたら遠慮なくご指摘ください。
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