1 貧困をなくそう

 歩くと少し汗ばんで、すぐに涼風で乾く。しかし今年の春の心地良さは表面的だった。私は体の芯で苦しんでいた。軽い動悸と鼻水、目は痒くてしょぼしょぼ。散歩中に見かけた電車の乗客にマスクの人が多かったことで、ひょっとしてこれが花粉症かと自覚した。昨年までは何事もなかった。散歩しながらこれが花粉症だと確信を持った。四十二歳にして、花粉症が顕在化した。元々、アレルギー検査では、海老と花粉とハウスダストは反応が出ていた。ハウスダスト以外は自覚症状がなかった。四十歳を越えると視力を筆頭に体の衰えが急速に進んだので、アレルギー反応も衰えると勝手に思っていた。花粉アレルギーからは逃げ切ったつもりでいた。それなのに後厄の年から花粉症とは。この先大好物である海老に対してアレルギーが発症する可能性を考えると、人生の先にある黒い闇がこちらに迫って来るようだ。海老、懐かしい響きだった。最後に食べたのはまだ東京に住んでいたころだった。花粉症で霧がかった頭では、海老の味を思い出せなかった。それほど重度ではない花粉症だったが、海老どころか食欲がほとんどなかった。食への渇望がなくなるというのは、体がエネルギーを求めなくなっていることで、人間としての危機にある。
 食べられる環境にあるのに食べたくない、贅沢な話だった。SDGsの1番には最も直接的な表現で、”貧困をなくそう”とある。食べられない人たちのために何かをしなくては。しかしよく考えると”飢餓”は2番である。1番の活動とは何か。

 散歩の途中、花粉症の症状を調べたついでに、”貧困をなくそう”の取組みをネットで調べてみた。寄付、ボランティア、教育支援、意識することが大切、と書いてあった。活動する気があるとは思えない文言だった。寄付する先を求めてネット検索してみるものの、信用できる機関が見つからなかった。異国でのボランティアには体がもたない。現地に行くのは難しいとすると、テクノロジーと教育の融合でweb授業というのがあった。五年以上前のネット系ベンチャーみたいだった。私は批判ばかりしてはいけないと自戒しつつも、”貧困をなくそう”はあまりに強大で、手ではなく口しか動かなかった。手を動かした活動ができないとストレスばかりがたまる。薪割りで汗をかくことにした。
 小屋の中に薪がたまってきていた。暖かくなり暖房としての薪が不要になってきたのだ。私は小屋の外でのテント生活を開始した。

 適切な相手への寄付、そう決めた。大金は持っていないが、日本的な品物を選べば、相手にとっては大金と同じになるはずである。駅でスイーツ女子たちを見つけた。彼女たちの故郷の家族はそれほど貧しくはないのかもしれない。それでも彼女たちの家族に送ってあげることにした。ホワイトデーのお返しとして切り出しやすかった。日本的なものとして選んだのはもちろんお菓子。甘い系と塩っぱい系。抹茶とワサビ。昔、東京での会社勤務の頃、海外出張には常に抹茶のチョコレートとワサビの柿の種を持参した。同じ緑でも全然違うからと、大げさに説明すると場が和み、食べた後には更に会話が弾んだ。どちらもキワモノではなく、多くの人種に共通の”美味しさ”のようだ。失敗はなかった。だから今回も抹茶のチョコレートとワサビの柿の種を中心に、お菓子を小さなダンボール一杯に詰め込んだ。一人に二箱ずつ渡した。一箱は本人に、一箱は故郷の家族に。”貧困をなくそう”としては不十分かもしれないが、不確実性ではなかった。”意識することが大切”なのである。意識するための第一歩である。

 年齢的に時流への反応が鈍くなってきているし、花粉症で頭の中に霧がかかっているので勘違いしていた。マスクは花粉症ではなく新型コロナウイルス対策だったのだ。もう大変な騒ぎですよと駅員に笑われた。無邪気に笑ってられたのは、このときぐらいまでだった。