漢字の葉の横棒の長さの美しさの

あ〜駄目だ、体の不調に引きずられて心が不調になる〜〜〜〜!!
心に注がれるカロリーが怒りと悲しみにしかならない。いつもそんなもんだろって卑下するのはこの場合何のためにもならなくて、ちゃんと自分の様子を把握してないと、迷惑を被るのは周りの人なんだからさあ。
とかって自己を把握できてるアピールしてるけど、既に周りを散々薙ぎ倒した後……だよね、うん乙。
正しいことを言うことは、正しくないことがある。綺麗な水でも勢い良すぎたら飲めない。乙。

こういうとき、筆ペンでもいいから何かしら字を書くと落ち着くような気がする。(さしあたっては明朝私より早く起きるであろう旦那に向けて書き残す。「ごみの日」と。)
落ち着くのは、字を書くと、書道と書道の先生が教えてくれたことを思い出すからだ。単純で基本的な技法の話でもあるけど、それは大抵、どこかにあったらいい本当のことの尻尾にちょっと掠ってる感触がある。「本当のこと」がありそうだし、まあ善く生きてみようじゃないかと思える。
私は結局まったく字が上手くならなかったし、未だにやっと気づくことがあるくらいに何もわかっちゃいなかったんだけど、それでもだいぶ早いうちから「これすごいな、これ世の中の理につながってるじゃん、すごいな〜!!」ってなってたことがあって。
それは漢字の「葉」の、「くさかんむり」と「世」と「木」の横棒の長さなのよ。
私は「世」の横棒を長く書く癖があった。長く書くとお手軽にカッコ良くなるんだ。そう先生に言ったら、くさかんむりと世と木の横棒の長さは全て揃えた方が良い、と手本がたくさん載った辞書を見せてくれた。確かに色々見てみると毛筆も活字も、横棒の長さは揃ってる!
何で気づかなかったんだ?! と「葉」をまじまじ見つめる私に、先生は、確かに字って一箇所だけ長く書くとカッコ良く見えるような気はする。でもそれはあくまで下手な人のごまかしのテクニックであって、本当に上手かったり綺麗だったりする字というのは極端なところが無いものなのよ。と言った。
このとき、やっと自分の名前を漢字で書くようになった子供だったから、もうこれはすごい天啓だった。家に帰って親にこの発見を話したし、教科書でも漫画でも暫くは字を見る度揃ってる……! と呟かずにはいられなかった。「美」の「大」の横棒の長さが私に与えた衝撃は今でも忘れていない。長さと美しさの関係に夢中になってみると、これは字だけの話じゃないぞ……と私はついに思いはじめた。で、極端なところに正解は無くて大抵そういうのは真ん中に近いところにあるんだなあ的な話を、訳知り顔で先生とするようになった。中高生の頃に授業でアリストテレスの「中庸」を知ったときは心の中で雷が落ちたし(オマイは俺かというネットスラングにすら出会う前かもしれん)、最終的には長短の差をがっちり出して達筆を気取る人を信用しない大人になった。
自分の名前に「葉」が入っていて良かった。いつでもいつまでも私は中庸の美しさを忘れずにいられるのだから。まあ別に「知美」でも「寿典」でも良かったんだろうけど。

と、旦那へのメモに最後、自分の名前を書き足した。
明日は極端に感情に身を任すのは慎み、中庸に、善く生きよう。明日こそ。

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