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駅西口・路上の営業マン

仕事の日は夜の9時から働いて、終わると朝の8時に自分のアパートに帰ってくる  ―  そんな生活を2年も続けていると、休みの日だからといって明るい時間帯に外を出歩くということが、段々と少なくなってくる。


東京・大田区の東京湾沿岸部にある青果卸売市場で、俺は、野菜の運搬の仕事をしている。夜間の肉体労働ではあるが、取り立ててキツい、というわけでもない。フォーク・リフトを操縦して 、全国各地から到着する野菜を、卸売市場内の出荷場に並べていくだけの仕事だ。休みは月に6日。毎週土曜の夜と、隔週で火曜の夜は仕事がない。

俺はいま、職場にほど近い、大田区の蒲田というところに住んでいる。
いまのアパートで暮らしだすのとほぼ同時に、卸売市場でのこの仕事をはじめた。

東京の南部・大田区を南北に縦断するようにしてJRの京浜東北線が走っている。その駅がある蒲田の東口サイドが、俺の住んでいる区域だ。
日々の生活については東口のエリアでだいたい事足りる。スーパー「マルエツ」蒲田東口店で普段の買い物の大半が済んでしまうし、本屋や日用品店、ドラッグ・ストアも近所に揃っている。
だから休みの日を除いて、西口のほうに行くことは、ない。

西口は違う、と俺は思っている。
卸売市場で働くアルバイターとしての俺の、生活のための街は東口がわで、西口はあえて「出かけていく」ための街なんだ。


休みの日の夜の8時半。仕事の日なら自転車に乗って市場に向かっている頃だ。
カメラを肩から提げて、俺はアパートを出る。今日は夜の「西口」を撮ろうと思う。

ここから線路沿いに北に歩けばJR蒲田駅がすぐに見えてくる。そして改札に向かう階段を昇ったあと、そのまま改札口を通り過ぎ、向こう側の階段を降りれば、西口の駅前の繁華街にかんたんに出ることができるが、俺は、そうはしない。
アパートを出て駅方面には向かわず、反対方向に歩いて行ったところにある長い跨線橋(こせんきょう)を渡って駅の西口エリアに出る。そうすることで、駅前の中心にいきなり出るのではなく、ゆっくりと繁華街に近づいていくことができる。


西口駅前のロータリーへ向かって、屋根のついた商店街「サンライズ蒲田」を歩いている。この時間なので、やっている店は少なく、人通りもまばらだ。パチンコ屋の店先だけが、ひときわ明るい光を放っている。

駅前のロータリーへ出たあとは、居酒屋や焼肉屋、カラオケ店の建ち並ぶ通りのほうへと進む。
こちらの人通りは商店街のほうと比べるとかなり多い。酒を飲んだ帰りであろう  ―  連れ立って駅のほうに向かって歩く人たちや、これから入ろうとする店を探しながら歩いているグループと擦れ違いながら、俺は歩いている。

繁華街を照らす街灯と、牛丼屋や回転寿し店などから通りに漏れてくる光とを利用して、道を歩く人びとの行き来を横からのアングルで撮ってみようと、そばにあった雑居ビルのエントランス部分に入り込んで、ビル入口の集合ポストのある辺りから、通りに向かってカメラを構えて少し待つことにした。

見知らぬ5、6人の男女が、ちょうど通り過ぎようとしている。
夜の街の光が彼らに当たって明るくなっているところと、その後ろの暗い部分のコントラストが良い具合だと感じた瞬間に、俺はカメラのシャッター・ボタンを押した。


しばらくすると、
≪いま、ここで、写真撮りましたよね?≫
突然に、話しかけられた。
まだもう少し、この場所から人びとの往来を写真に収めたいと、機会をうかがっていた俺に、濃紺のスーツを着た大柄の男がさらに問いかけてくる。

«写真、撮ってましたよね。いますぐに、データ、消してもらえます?»

それはできない、と答えた。
この男の言うように、たしかに俺はここで通行人の写真を撮った。だが、その画像のデータというものが存在しないのだ。
なぜなら、俺が使っているこの写真機はデジタル式ではなくフィルム式だから……

《じゃあ、今ここでカメラからフィルムを抜いて、自分に渡してくれますか?》

またも俺は、それはできない、と答えた。
夜の街の通行人をただ撮っただけで、やましいことは何もしていない。

ところで。あなたはどちらさまですか?
俺がここで写真を撮っていることが、あなたにとって何か問題なんですか?


《この通りの先のビジネス・ホテル、わかります?その隣のビルの地下にキャバクラがあるんですよ。
自分は、そこでマネージャーをやらせてもらってます。

いま出勤してきた女の子から、この場所を通った時に、誰かに写真撮られたって報告がありまして。それで、その子がすごく怖がってるんで…、フィルム出してもらえます?》

この男の言い分は理解できた。しかし、それだけで彼の要求に従うのは、はっきり言って少しシャクだ。
繁華街の通行人をただ撮っただけだ。しかも、人物を特定することがねらいで撮ったわけではない。その写真を公表する予定もわからないし、プリントすらしないかもしれない  —  こう主張しようかとも考えたが、しかしこれは、俺の身勝手な言い分であり、俺に写真を撮られたと訴える、この男の店に勤める女性の不快・不安を取り除いてやることにはならない……

悔しかったが、写真機の中に入っているフィルムを男に渡すことにした。本体の底についている巻き取り開始ボタンを押し込み、上面にある巻き戻しクランクをつまみ出して、クルクルと俺は回し始めた。途中まで撮影してあったフィルムが、写真機の中でパトローネに巻き戻されていく。

背が高く、色の白い整った顔立ちをしている。サイドをきっちりとヘア・ジェルで撫で付けた黒い髪の、濃紺のスーツが似合う、いい男だ。
そして俺より若い。30歳の手前といったところだろうか。
男の顔を見上げて、そんなことを思う。

36枚撮りのフィルム1巻の3分の1ほどしか使っていなかったので、巻き取りはすぐに終わった。
本体の裏ぶたを開けてフィルム容器を取り出して、俺は男にそれを手渡した。


《「100」のフィルム使ってるんだ…
これで夜の撮影はキビシイっすよね。開けるとボケるし、遅くするとブレるし》

「100」とはフィルム容器に書かれている露光感度のことだ。「あける」とはレンズの絞りについて言っている。カメラのシャッター速度を「遅くする」と動く被写体はブレやすくなる。
この男は、アナログ方式の写真撮影に詳しいようだ。

《おれ、高校のとき、写真部だったんすよ》

ああ。そういうことか。
「写真」を知っている者“どうし”として、彼との距離が少し近くなった気がした。

《誰かに見られてないかな…  —  出勤してくる時や閉店後に店を出るときは、女の子たちは神経質になってます。彼女たちに安心して働いてもらうのも、私の仕事なんです≫

改まった口調で、彼はそう言った。
俺から無事、フィルムを受け取ったことで、安堵しているように見えた。

男の態度に俺は納得した。マネージャーの仕事も大変ですね。彼にそう伝えた。
これで用は済んだはずだ。
俺は歩き出そうとする。


《お兄さん、いつも何の写真、撮ってるんすか?》

答えに困ってしまう……
どうしても、カメラを向けてシャッター・ボタンを押さなければならない相手など俺にはなかった。
俺は彼に答えることができなかった。

《夜にひとりで写真撮ってても、つまんないでしょ。
あそこの地下にうちの店ありますんで、よかったら今度、遊びに来てください。いい子、いますよ》


店の従業員に対し不審な行動をとった人物  —  そんな俺に対して、問題への対処だけでなく、そのあとの営業トークを加えることも彼は忘れない。


後日おれは、この店の客になった。

 
        (おわり)
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