ミスター・ドーナツショップ 〜浅草で出会った、誰かと話したかっただけの男 〜
わたしはドーナツショップの客席にいた。
客席に座っていた時間のほとんど、わたしの片方の足は、靴のかかとがフロアから3センチほど浮いて、つま先から親指の付け根にかけての靴底の部分だけが床面と接している状態になっていた。そして、そのかかとは上下におよそ2センチの幅で小刻みにずっと震え続いた。
わたしはその店でチョコレート・ドーナツをひとつ食べ、アメリカン・コーヒーを飲んだ。
その店では、飲み終わったコーヒーのカップを店員に差し出せば、ポットからそこに新たに注いでくれる。1杯注文すれば、それを何度おこなっても追加の支払いの必要はない。
おそらく5回、わたしはカップを差し出したと思う。すべて同じ女性の店員を呼び付けた。そして、席の前に来てコーヒーを注いでくれている彼女に、その度ごとにわたしは話しかけた。
昨夜にテレビで放送されたあの有名コメディアンのトーク番組を、あなたは観たか……。店の中で近ごろ店長を見かけないが、どうかしたのか……。通勤の際、あなたの家から店までどれくらいの時間がかかるのか……。いま降り続いている雨は、今朝のいつごろから降り始めたのか……。毎日の立ち仕事にあなたは苦痛を感じないか……。いつも来ているあの客は、今日も来たのか……
彼女はこたえなかった。全部の問いかけに対し何の反応も示さない。コーヒーを注いでいるあいだ、彼女はわたしのカップしか見ようとしていなかった。
店に入ってから5、60分が経過したころ、革の書類かばんの中に入れてある自分の電話をわたしは取り出した。
そして鉄道のU駅に電話をかけて、今日の夕方にU駅を発ち、路線の違う快速電車にT駅で乗り換えて、O駅に着くための正確な所要時間を問い合わせた。それが済むと今度は逆に、O駅に電話をして、今日の夜にO駅に到着するT駅発の快速電車に乗るためには、U駅を何時に発つ必要があるかをきいた。
それぞれ、5分以上は話をしたと思う。2つの駅とも、時刻表をもとに担当員がていねいに、わたしの質問に答えてくれた。
もう少しで外の雨は上がりそうだ。
あと数時間のうちに陽射しが戻るなら、U駅に着くころに夕焼けが見られるだろう。
先ほどの店員がわたしのことを好ましく思っていないのはわかっている。わざわざ駅に電話で確かめなくても、電車の運行予定はもっと簡単に調べることができるのは知っていた。
それから、わたしの「貧乏ゆすり」が近くの客にとって不快なことであることも自覚のうちに一応ある。
わたしはドーナツ・ショップを出た。
ただ、誰かと話がしたかったのだ。