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時代の変化への耐性

こんにちは。

今日は過去10年間の情報化社会の情報入手媒体の変化における
自分の情報入手先の好みについての個人的な感想です。
(既にわかりにくい文章ですみません。
 どなたかのお役に立つ内容ではないかもしれません。)


利用してきたディバイス

2014年以前:ガラケー、GoogleのAndroidタブレットNexus 7、Anchor社のPC
2014年以降:AppleのiPhone とiPad

この約10年間でIT環境は目まぐるしく変化し、
PCを始めて使い始めた約30年前に比べても、
情報入手の媒体選択肢は比べ物にならない程増えました。

先日ふと考えてみたところ、情報を入手するにあたり、
自分なりの好みがあることに今更ながら気が付きました。

結論

文字や音声から情報を得ることには(量的に多くとも)耐性があるが、
映像媒体への耐性はあまりない。
複数の制作者が関わっている映像媒体(ニュース、映画、ドラマ、
ドキュメンタリー等)は問題なく視聴できるが、
個人制作、特に短時間映像媒体(YouTube、Instagram、TickTok等)への
耐性があまりない。

情報入手媒体

ここ数年間で世界的に一気に広まった個人制作の短時間の映像媒体
(YouTube、Instagram、TickTok等のプラットフォームやソーシャルメデイア)がありますが、短時間映像は視覚的に刺激が強く情報量が多く感じられるので
私は基本的に利用しません。文字+映像媒体でもあるXも長くて2〜3分程度しか見続けられなことに気がつきました。何とか1日一回確認する位です。
(Xはアイコンの色やデザインはCoolに感じる一方で、
 クリックする際に何かが起きそうで何だかドギマギします。)

これらの短時間の映像媒体は「短時間」なので
時間的な負担は少ないはずなのに、
何故か個人的には「情報圧」が強く感じられ
長時間見続けることができません。

ここ数年、私が日常的に利用している情報入手媒体:
・Podcast(ニュース、科学者・研究者同士のトーク番組)
・Voicy
・書籍
・Web上の文字媒体
・YouTube(ニュースを映像で確認したい時のみ観る。
      TEDTalk等もほとんどは耳で聴く。
      もし他の音声プラットフォームでも配信している場合は、
      そちらで聴くことが多い。)

何故か?
文字や音声からの情報入手の場合、目からの視覚的な映像情報がない分、
自分の頭の中で自分が必要だと思う情報画像の想像・制作域を
自分自身で調整できます。
(頭の中の想像・制作域の幅は他人比較ではなく、
あくまで一個人の過去と現在とのの比較でしかないので、その想像・制作域の
幅を客観的に提示することは難しいのですが)おそらく自分で調整できる程度の映像量が個人的に心地よく感じるのかなと思います。視覚的な映像の「情報圧」を受けることなく、安心して自分のペースで情報を入手、咀嚼、理解することに集中できるので、文字や音声からの情報入手が好きなのだと思います。

短時間の情報媒体と長時間の情報媒体とを単純に時間量で比較するとは圧倒的に長時間の情報媒体の方が多いのですが、文字や音声の場合、仮に時間量も情報量も多かったとしても、その量の多さに参ることは個人的にはあまりありません。

一方で短時間の映像媒体の場合は、短時間であっても私が咀嚼できる量以上の
アイキャッチーな映像の「情報圧」に耐性がないからか、
私は短時間の映像媒体を日常的に継続して見続けることができません。
(時折は観ます。)

ただ不思議なもので、映像媒体であっても既存の映像媒体(ニュース、映画、
ドラマ、ドキュメンタリー)は複数の方々が制作に関わっている
既にわかっているからか安心して観られます。

一方で、個人で創っているであろう短時間の映像コンテンツは、
それを制作している理由や目的、制作の背景や伝えようとしている事等、
色々と考え出すと何だか不安や疑問を感じたり、
その不安や疑問から視覚的に映像から目で見えている以上の事を
(おそらく不必要に)想像しだしたりと、映像を観ることに集中できず
見続けられません。

その視点から考えると、私が好む文字や音声の情報媒体は
企業制作、企業監修で、完全なる個人で制作されたものはなく、
制作、編集には複数人が関わっていると思われるので、
個人の「情報圧」をそこまで気にせず、読んだり聴いたりすることに
安心して集中できるのかと思います。

一方で、Voicyは個人制作であるはずですがそこまでの不安感や
ドギマギ感を感じず日々楽しく聴くことができます。

何故か?
審査を通過したパーソナリティーさん達であるという安心感があるからかと
個人的には思います。又、私が聴いているパーソナリティーさん達の
各自の見解や意見への責任表明が明確に感じられるので、
見えない不安や疑問をさほど感じず、安心して聴き続けられるのだと思います。
又、耳からの情報で視覚的な情報圧がないので聴くことに安心して
集中できます。

今後

個人的な好みとは別に、時代としては短時間の映像媒体から
情報を入手する方向に向かっていると思うので
現時点で私は既に情報消費者としてメインストリームから
外れている気がします。

今後、時代が短時間の映像情報媒体からの寄り戻しで、
比較的まとまった時間/文字多めの情報媒体に戻るのか、
このままそれぞれの情報消費者の層が大きく二極化していくのか、
両方のバランスをとったような情報媒体が出てくるのかはわかりません。

自分でできることとしては、情報弱者にならないように気をつけて、
短時間の映像媒体を短時間でもいいので
時々は観るようにしておこうと思います。

情報は文字にならなければ衣食住(服、食べ物、住む場所)のように
目に見えるものではないけれど、安全に、よりよく生きていく為には
大切な、生活に必須な物です。

自分の好みと時代の変化への耐性との折り合いをつけながら、
時代の変化に合わせ、どんな時代、どんな場所でも
自分なりに健やかに過ごせるように
今後も時代の変化に柔軟に適応できるようにしたいと思います。

今日も最後まで読んでくださりありがとうございました。