スクールバスでのとある出来事からの学び
こんにちは。
今日は米国生活での出来事の振り返りたいと思います。
それは子供のスクールバスでのとある出来事でした。
とある日
住む地域によりスクールバスの有無は異なりますが
私達が住んでいた地域の公立学校にはスクールバスサービスがありました。
日本のバスとは異なり、登校時も下校時も
予定時刻よりもかなり遅れて到着する
時間幅のあるサービスでしたが、
多くの家庭にとってありがたいサービスでした。
日本に比べて銃事件や子供の連れ去り等も
はるかに高い米国社会においては安全に配慮された、
又、自家用車を持てない、もしくは複数台持てない
ご家庭には貴重な交通手段としてありがたいサービスでした。
そして子供達にとってはバスの車中では
保護者や学校の先生方といった大人から離れ、
(運転手さん以外は)子供達だけで過ごせる
ちょっとした特別な時空間である様子でした。
子供達だけのおしゃべりやおふざけを楽しむ一方で
日本の小学生の分団で上級生が班長、副班長として
下級生達を見守りながら登校するのと同じように
米国のスクールバスの中でも上級生がバスの中の安全を
見守る役(Bus monitor)があったようです。
それは子供がBus monitorをしていた小学校の最終学年時の
とある日に起きた出来事でした。
泣きながらバスを降りてくる我が子。
同じバス停を使う近所の子供達がバス内での状況を教えてくれました。
数ブロック前のバス停で乗り降りするとある生徒さんに
急に胸にグーパンチをされたとのこと。その子達は続けます。
悪いのは急にグーパンチをしたその子で、我が子は何も悪くないと。
その子は普段から素行に問題があるんだからと。
他の親御さんも続けます。
グーパンチをした生徒さんの保護者が色々とありそうなのよと。
色々とは刑歴(crime history)のことだったり
家庭環境だったりもします。家庭環境も両親の離婚、再婚ならぬ
両親とも子供達と血縁関係がない場合も多くはないけれど
珍しい話でもありませんでした。
急にグーパンチとは、、、
その生徒さんは低学年とは言え、言葉で意思疎通は取れるとのこと。
何の理由もなく殴られる理由はないのでは?と思いました。
我が子は何もしていないとのことなので何か言ったの?と聞くと、
「Your mom」と言ったと。そしたら急にパンチしたと。
我が子はバスの中では安全の為に座席に座っていなくちゃいけないのに、
その子は座らず移動してて危なかった。その日だけでなく
普段からそうで、特にその日は危なくて何度も注意したのに
聞く耳を全く持たないので、それなら「お母さん」に言うよと
言いたかったとのこと。
誰かに声がけする時、話を聞いて欲しい時は
Your mom!ではなくて、ちょっと聞いて欲しいという意味合いの
言葉がけだよね?と我が子に説明しながら
ぼんやりとですがグーパンチをした生徒さんの衝動が
その言葉にあったことが想像できました。
幸いにも怪我はない様子でしたし、私に話したことで
我が子は少し落ち着いた様子でした。
自分の子供がグーパンチされてもちろん良い気はしませんでしたが、
一方で相手の生徒さんも何かしらの理由があって手を出したのであろう。
もしもそういった問題行動が今後も続くようであれば
学校に相談しようと思い、一先ずは少し様子を見ることとしました。
校長先生の対応
翌日子供が帰ってきて、学校・バスでの様子を聞いたところ
その生徒さんはその翌日から数日間、停学処分を受けることになったとのこと。
え?小学校の低学年生でも停学処分が適用されるの?と驚きました。
校長先生がその生徒さんと我が子とそれぞれと個別に話し、
そういうことになったとの事でした。
どこもかしこも、しっかりきっかり法社会の米国。
地域によるとは思いますが、毎年新学期が始まると
市・公立学校が定めた規定に従うという同意書に
保護者も生徒達もサインを求められます。
我が家が住んだ地域の学校の規定には暴力的行為に関する罰則規定もあり、
程度によっては停学や退学処分となることが明記されていました。
そしてこの適用はキンダー(日本でいう年長)から高校卒業まで平等に適用。
その規定に従い、グーパンチをした生徒さんは数日間
停学処分となったのでした。何とも公平というか現実的というか、、、
子供に、校長先生とどんなお話をしたのか聞いてみました。
母親がいない生徒さん達もいるからお母さんという言葉で
深く傷つく生徒さん達もいると言われたとのこと。
喧嘩両成敗といいますが、片方が絶対的に悪く、
片方が絶対的に正しいと言う事もなかなかありません。
身体的でなくとも言葉がけも言った側と受け手の
受け取り方の違いにより中性的にも暴力的にもなり得ます。
全体的なことはふんわりとわかったものの、
子供の話はかなり抽象的で細かな背景が想像しにくかったので、
子供と個別で話す時間をとってくれたことへのお礼も兼ねて
校長先生にEメールすることに。
・個別に時間をとってくださってありがたかったこと
・我が子も相手の生徒さんも今回の出来事から
各々に何かを学ぶ良い機会になったであろうと思うこと
・日々のご指導に感謝していること
を書きました。
校長先生からの返信には
暴力的行為は許されるものではない一方で
とある言葉が自分が思いもしない様に
相手を傷つけてしまう可能性・場合もあることを
我が子に話したと書かれていました。
生徒さん達の中には母親を持たない生徒さん達もいるから
自分にとっての当たり前が相手にとってはそうではないこともあり、
それが自分が思う以上に相手を傷つけてしまう可能性もあると。
なかなか難しい問題です。
相手の家庭環境やバックグラウンドの全てを理解、把握することは
大人でさえ難しく、子供はまだまだ学び中。
一方で、だからこそ良い機会だったのだろうと思いました。
自分と同じ様な環境に身を置いていたら自分と同じような
家庭環境が社会の当たり前と悪気もなく思い込み、
自分にとっての当たり前が他の人にとっての当たり前ではないことに
気付かすに過ごしてしまうかもしなれかったから。
話は校長先生の対応に戻って。
学年に関わらず、どちらか一方の味方にはならず、
規定に従い判断を下し、
生徒それぞれに各々の課題を提示した校長先生の姿勢から
公平なリーダーシップを感じました。
グーパンチをした生徒さんには感情のコントロールを
我が子には言葉の送り手と受け手の感じ方の違いがあることへの
意識付けと想像力を持つことを。
規定に則っての対応とは別に、
両方に課題を提示し
片方が絶対的悪で片方が絶対的正とはしなかった
先生の対応から色々と考えさせられました。
柔軟性と多面性
白黒の間にあるグレー域はかなり広く、正と悪の判断は
きっちり線引きできることばかりではないんだろうな。
誰かにとっての正が視点の置き方によっては悪にあることも。
頭ではわかっていても理想と現実の間で起こる
日常生活内での出来事は個人的には無意識的に
正か悪か、0か100かで判断しがちです。
絶対的な何かはなくて、時代や価値観の変化によっても
地域、文化によっても認識や判断は柔軟に流動的なんだろうなと
改めて意識を向けるきっかけになった出来事でした。
幸いにも身体的にも、心にも大きな怪我をすることなく
その出来事は時間と共に過ぎていきました。
なのでそこまで心がざわつくこともなく落ち着いていられたけれど、
大怪我でもしていたらそんな風にも考えてはいられなかったと思います。
そう考えると不幸中の幸いだったと思います。
絶対的な悪もなく絶対的な正もなく。
視点の置き方によってはどちらにもなり得る。
認識や判断の柔軟性や視点の多面性を意識するきっかけになった
米国生活での一つの出来事でした。
今日も最後まで読んでくださりありがとうございました。