旧東海道歩き172-25日目 逢坂関と園城寺
とうとう!
京都市が見えてきました。
踏切の向こうの鳥居
んー?
関蝉丸神社
坊主めくりで一番有名な蝉丸
なつい!
ブルーシートに守られる門
これやこの ゆくもかえるもわかれては あうもあわぬも 逢坂の関
百人一首の蝉丸の有名な歌
そう、こちら、関蝉丸神社下社
京阪京津線と一緒に京都に向かっていきます
そして、都会になると仕方ないのだろうけれども、旧東海道ではなく国道1号線と合流してしまう。
そしてぬるっと大津宿の本陣を通り過ぎてしまった。
家の目の前が突然踏切。
道路の向こう側に関蝉丸神社上社
蝉丸、めっちゃ祀られてる。
逢坂山の山上(上社)と麓(下社)に作られている。
社格は旧郷社
塀に埋められる蝉丸
この着物の人は誰
逢坂山関址
古代の三関の一つとのこと
南北朝時代以降には園城寺が支配して関銭が徴収されるようになった。しかし、貞治6年(1367年)に園城寺の衆徒が南禅寺所轄の関を破却したため、侍所頭人の今川貞世によって四宮川原関や松坂峠関(ともに現・京都市山科区)とともに焼払われた[2]。
穏やかじゃないじゃない…
https://kyotofukoh.jp/report170.html
でまた、すごいサイトを見つけた。
1367年、三門造営が始まる。造営費用調達のための関所が設けられる。園城寺童僧が通りがかり諍いになった。南禅寺住持が天台宗を罵る文を著し、それに反し園城寺僧徒が強訴した。衆徒は南禅寺の関二カ所を毀ち、禅僧などを殺害する。(『師守記』『太平記』)。幕府は、南禅寺の訴えにより、園城寺の領する三関を焼く。
もう少し詳しく書かれてる。
園城寺、好戦的だな…
そもそも、南禅寺は臨済宗で禅宗、園城寺は最澄がもたらした天台宗で大乗仏教。
だから、争い合う関係にはないと思うのだが…
脱線してしまった…
逢坂常夜燈
平安後期から関所としての役割は形骸化された、と。
・・・なるほど、ただ、通行料を取るだけのところになったってことね。。