旧東海道歩き136 桑名宿と木曽三川とヨハネス・デ・レーケ
桑名川の七里の渡し
桑名城・蟠龍櫓
42番目の宿場町、桑名。
ずいぶんと三条大橋に近づいてまいりました。
石垣の感じとかも再現してる。
目の前に揖斐川
そして、遠くに見える丸いポツポツは長良川河口堰
そして、江戸時代中期の宝暦治水
前にも少し触れたのと、この看板で説明されていますが、まず、幕府の直轄領の尾張を守るために幕府が、1608年に御囲堤を作るのだけど
ここにもきちんと書いてあるのだけど
赤い線で引いたところが御囲堤になっていて、増水すると美濃側に全部流れるようになってる。
こんなの、今の感覚だと、治水じゃない。。
更に、幕府が宝暦3年(1753年)木曽三川(木曽川、長良川、揖斐川)の治水工事を薩摩藩に命じて、1754年に着工
そして、1年3か月かけて宝暦治水を完了するのだけど
で、色々と胸糞悪い話なのだけど
1754年(宝暦4年)4月14日、薩摩藩士の永吉惣兵衛、音方貞淵の両名が自害した。両名が管理していた現場で3度にわたり堤が破壊され、その指揮を執っていたのが幕府の役人であることがわかり、それに対する抗議の自害であった。以後合わせて51名が自害を図ったが、平田は幕府への抗議と疑われることを恐れたのと、割腹がお家断絶の可能性もあったことから自害である旨は届けなかった。また、この工事中には幕府側でも内藤十左衛門ら2名が自害している。地元の庄屋と揉め事を起こしたこと、幕府上層部の思惑に翻弄されたことなどが原因とされる。さらに人柱として1名が殺害された。
更に、薩摩藩が要した費用が40万両で、幕府の負担が1万両だって。
酷い話。。
で、薩摩藩家老で総指揮していた平田靱負(ひらたゆきえ)は、この工事の後、自害しているし。
しかも、大工などの専門職は雇っちゃダメだった、って。
嫌がらせ、半端ない。
時代が下って、明治期のお雇い外国人の一人、ヨハネス・デ・レーケが改修計画を策定して26年かけて工事完了。
ここでやっと、洪水がだいぶ減った、と。
へーーーー、この方、1873年(31歳)~1903年(61歳)まで、日本にいらっしゃった、と。
確かに、お金はたくさんもらえたのだろうけど、それだけがモチベーションとも思えず。
建設事業の竣工において、事業関係者は招待されたり記念碑に連名されるのが慣例とされているが、デ・レーケは関連した全土木工事において一度も招待を受けたことがなく、連名の記念碑も無い。これは、お雇い外国人はあくまでも裏方であり、任務は調査と報告書提出のみであって、それを決定し遂行するのは日本側である、という事情の表れとされている。
すごい人だなぁ。
そして最後、伊勢湾台風以降の治水整備
伊勢湾台風の死者・行方不明者、5000人を超える、と。
本当に、海も川も、恵みも多いけど、それと同時に恐ろしい。。