旧東海道歩き174 牛車と車石と浮世絵に描かれた馬と牛
歩道橋に「旧東海道」っていう導き。
そんなわけあるかいな、って見るたびに思うのだけど、この先、ってことなんだろうね。。
電柱に託される一里塚。
そして、京都市のマンホール
御所車をモチーフにしてるとのこと
車がぶつかったりとかしたのかな。。。
ボロボロの道標
歴史に刻まれた街道
東海道と伏見街道の追分になってる
伏見街道、と一口に言っているが、こっちの方だな。
牛車の通行を楽にするために、大津・京都間の12キロ、花崗岩の厚板石が敷き詰められていた、と。
としたら、ここの道に石が描かれていても良いけれど。。。
線路みたいに石が置かれてる
この溝が牛車の轍の跡なのね
呼びかけられる。
そして、当家?ここにお住まいの方が作ってくださった資料。
すごーーーいい!!
ちょっと前に会った看板も同じテイストだったから、こちらを作ってくださってる方と同じかしら。
ここら辺は旧東海道が県境になってるので、行ったり来たり
あとそうだ。
荷物の運搬で馬で運ぶ場合と牛で運ぶ場合。
馬は背に乗せるだけで、馬車は無いんだな、と。
①日本に伝ってきた馬文化は、朝鮮半島経由で伝わった騎馬民族郷土の文化で、ヨーロッパの戦車中心の文化とは違い、騎馬を中心に勢力圏を拡大した文化であったこと。
②日本には野生馬を含めて馬の数が少なく、非常に貴重な動物であった。それゆえに「神馬」というように権力者の象徴となり、これに荷を牽かすという発想は生まれなかった。
③日本は多湿の海洋性気候のため、年間を通じて雨が多く河川も多い。また火山列島のため山地が多く、江戸時代に街道が整備されたとは言え、馬車を自由に走らせるスペースは少なかった、という気候と地形の問題。
④時代が変わっても高価な動物であることに変わりはなく、平民の乗馬は明治まで許されず、牛-公家、馬-武士のものとされていた。また江戸時代には戦略上の理由から、馬や車の使用について厳しい規制があり、馬車の登場する余地はなかった。
レファレンス協同データベースより引用。
ただ、②に関しては、馬子もだし、荷物も人も乗っかっていたと思うけど。
川崎
戸塚
人が乗るところだね。
馬子の恰好が酷い。。。
大磯
雨の日の馬
三島
早朝の馬。肌寒そう
吉原
3人も乗っちゃってる。
三島では、人+荷物しょってるから、子ども(かな?)ぐらいなら3人乗っても大丈夫、なのかな。
奥にも馬が1匹
興津
こちら2人、力士らしい。。
馬も大変だ…
府中
安倍川を渡る馬
藤枝
人馬継立で、荷物を受け渡すところ
嶋田
大井川を渡る馬
金谷
これも大井川
大名の川渡りでも馬が
これも金谷
袋井宿
見付
天竜川を渡る馬
藤川
幕府が京都の御所に献上する馬
池鯉鮒
馬市
鳴海宿では女性を乗せる馬
宮宿では神事の走り馬
石薬師では人を乗せた馬が
牛がやーーっと出てきた。
で、これ、改めて見ると、綺麗な身なりしてるし、親子で旅をしているのかもな。
どうなんだろ。
石部宿で柱に繋がれた馬
草津宿でも繋がれた馬
で、やっと大津宿で牛車が出てくる。
まぁ、牛車が走れる場所がここぐらいしか無かったんだろな。
そして、農業でも牛、使われてたはずで、いるかなー、と思って探してみたけど、東海道五十三次の中にはいなかった。
で、大津で牛車を書いている理由も納得。
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