ミミクロイドル あっしゅんの話 2
私は朝の早い教室に入り、自分の席のところへ向かう。前の席の葵と目が合う。葵は黒縁メガネを少し上げてから私に軽く手を上げた。そのあとすぐに机の上のノートにペンを走らせる。チャンク式英単語の赤シートを少しずらしては、自分の記載単語を見比べて、また次の単語へと葵のペンは止まらない。それを見て私も今日の一限目が英語だったことを思い出す。席に着くなり私もバックの底から単語帳を取り出して開いた。赤いシートで見えなくなった単語を頭の中で諳んじる。英語の発音を気にすることで、記憶に定着しやすくなるのを知ってからは、実際に書くよりも読んで覚える方が圧倒的に多くなった。教室の前の扉が勢いよく開く。元気よく飛び込んできたのは私の親友の茉優だった。彼女は周りの女子に挨拶と笑顔を振りまきながら、私の隣の席に着く。今日はウェーブがかかったボブの髪をトップにまとめて、少しおくれ毛を垂らしていた。白くて透き通る肌の上でその髪が揺れる。私は茉優と目が合うと「良いね、その髪型」と褒める。でしょでしょと、口に手を当てながら、彼女はカラカラと良く笑った。
「あれ? 今日って単語テストだっけ?」
茉優が私の手元に視線を落としてからびっくりした声で訊ねた。
「そだよ」
「え? うっそーやっば。ちょっとどこだっけ?」
私は笑いながら、茉優に単元の番号とページを教えてあげる。そもそもチャンクを忘れてた茉優はオワタと言いながら、机に突っ伏した。
「なんで、明日香は余裕なのよ。裏で勉強しているでしょ? 昨日だって一緒にいたはずなのに……」
「してない、してない。今やっているところだって」
すると、葵が振り向いて小型犬が威嚇するみたいに鼻に皺を寄せて私を見る。長いまつ毛が揺れていた。繊細な彼女のそれに似合う、美しい目だった。私は葵の表情を見て、いつものように笑った。最近の単語テスト上位は私と葵でデットヒートを繰り広げているからだろう。私は葵の頭を撫でながら、
「葵みたいにひたむきに努力できる子は、必ずいい方向に向かう。そういう力を引き寄せるんだから、他人と比較しないの」
とフォローする。実際にその通りなんだから。
「そうやって、あっちこっちにイケメンを振りまくな。だから下級生が尻尾を振ってお前の周りに纏わりつくことになるんだよ」
茉優が私の態度に苦言を呈した。その横で、撫でられた葵の耳が赤くなった。うーん、ごめんごめん。
私は、アイドルとはかけ離れていた。顔の作りは濃くて目鼻立ちがしっかりしていて、身長も168cmと軽く日本人の平均身長を越えている。外見に合わせて言葉を選んでいるうちに、宝塚の男役のような人間になってしまった。なんなら鼻の横にシャドーを入れたら、すぐにでも舞台に立ちそうな顔立ちだった。加えて、声がやたらとイケボでいわゆる嗄声(させい)で、息が多く含まれている。女子校では希少な男性性を振りまいているせいで、私の一回目のモテ期は余すことなく可愛い女生徒たちに使い切られてしまいそうだった。
「明日香様ぁぁ。おはようございます!」
ユーリが教室の扉を開けるなり、私をロックオンして登場する。あぁ、うるさいのが来た。私はあえてにっこりと笑い返し、鋭い目で流す。ビビったユーリはそこで直立不動になる。が、私の鋭い目線を思い出し一瞬で惚けて溶ける。それを見て私は頭を抱えた。
「明日香様、本日も眉目秀麗なご尊顔を見ることができまして、私、この上なく幸せでありますわ。さ、本日のランチでございますが、冷やし中華をご用意しました」
ユーリは私の分の弁当箱を差し出した。わっぱの弁当箱で、弁当袋の中にはプラスチックのタレ壜に入った、冷やし中華のたれが添えられていた。丁寧な女子であるユーリらしい手の込んだ内容だった。いつ頃からか、ユーリは私のランチを用意するのが日課になってしまった。最初は嬉しかったのだが、毎日というのは悪いなと思い、断ったことがあったのだが、泣きわめいて拒否されたものだから、そのまま私は有難く受け取ることにしたのだ。「いつもありがとう」と笑顔で返したら嬌声を上げてユーリが小躍りをしていた。まったく、とあきれながらも私はまた単語帳に目を戻した。ユーリはドイツからの帰国子女で、母親の親にドイツ人のルーツが入っているクォーターだ。幼少期にドイツで生まれ育った彼女は文化的にヨーロッパに浸りきるのではなく、むしろ日本文化への強い憧れを持って育った。恐らく日本の若いどんな女の子よりも日本文化に精通している。ただ、彼女が一番はまっているのはBLであろう。そう禁書だ。日本においてその文化の昇華具合は恐ろしい。そうして、中学生になって母親と日本に来るチャンスがあったので、異国の地へ飛び込んできたのだった。で、なぜかリアルでは百合を楽しんでいる。ユーリ曰く、どちらにも其々の趣があり、一概に一言ではくくれないが、背徳感を背中で感じることができるらしく、それが堪らないとのことだ。
ユーリを適当にあしらっていると、前方の席の近くに笹山さんが現れた。長いスカートの裾を丁寧に折りたたみながら自分の席に座る。今日も赤いリボンで髪を結って、ふわりとした明るい髪色のおくれ毛を耳に掛けていた。鞄を机の横に掛けて、必要な参考書と教科書を整理された机に入れていく。笹山さんの所作はその一つ一つがとても美しい。それでいて、話はじめると弾けるように笑顔を振りまく。可愛い。とても、可愛いのだ。
「ああ、良いなぁ」
笹山さんは私と目が合うと、首を傾げて笑顔で返す。まるで、テレビの中のアイドルみたいだった。
🎤
帰宅して一通り宿題など課題を終えた私は、部屋で推し活をする為、IRI-DOにログインした。と言ってもLive Holography 機能をつかってファリル・ルーを視る為なので、渋谷にわざわざ行くわけではない。グーゴルレンズを瞳に入れて、スマートフォンのIRI-DOプリを起動するとログインができる。目の前の空間にデジタル上のホーム画面が立ちあがる。IRI-DO内だけのSNS、「Hey Dude」の通知が届いている。空間に浮き上がったタイムライン式のコメントを下へスワイプすると色んなアカウントがアップしたコンテンツが流れてくる。文字コンテンツ、動画コンテンツ、音声コンテンツ、もちろんARコンテンツもだ。いつも通り、ハッシュタグをつけて「ファリル・ルー」を入れるとお勧めでタイムラインに関連コンテンツが流れてきた。IRI-DOの表現内容を忠実にシェアする為には、既存のSNSでは足りない部分が多かった為、独自に開発されたのが「Hey Dude」だという。そのおかげで私はいつでも、ファリル・ルーをAR上で追いかけることができる。有難いことだ。私は、昨日までに未読であったコンテンツを一つずつ開いては感想をぶつけたり、推しに癒されたりしながら、毎日を推しで溢れさせていくことが日課になっていた。
このアカウントは私の推し活専用で、学校の誰にも教えていない。私は、もう十分すぎるほど分かっていた。私には「かわいい」を表現できない。笹山さんみたいな、可愛さがない。可愛いをすることが恥ずかしくなってしまっていて、なんなら、可愛いを推していることさえバレたくないってぐらいねじれてしまっていて、拗らせていて、多分メビウスの輪も驚くほどで、私の自意識はドーナツ型の地球儀のように上に行けば下から出てきて、右に行けば左から出てくる世界になってしまっていた。ぼーっと考えを巡らせながらも、タイムライン上のファリル・ルーを私は精一杯愛でていた。どこから見ても彼女は完璧で、彼女が口を開いて、私を見て「かわいい」を表現していると胸の中で、心音が一つ高くなる。そのあとお腹のところにそれが下がって、熱い何かになって口から出てくる。「かわいい」——そう、彼女のような「かわいい」を全身に纏い、武装して、誰でも射抜けるあの表情が好きで、そしてどうしようもなく憧れていたのだった。
#ファリル・ルー #別人格 #IRI-DO #新しい人格
『IRI-DO 世界に先駆けた新しい可能性を論じる』
ちょっとバズってる映像コンテンツが流れてきた。その映像はワイドショーの様相で、普段はこういったものを私は見ないのだが、どうやらファリル・ルーを讃える映像がありそうだったので、ついつい開いてしまった。
ぼーっと見ていたのに、動画のコメンテーターが私を指さしてそう言った。いや、実際はモニターに向かって話しているだけなのに、私は、私に言って欲しい言葉を見つけて、自分の絡まった心の琴線を紐解いて、治った弦を確かめるように弾いては響きを味わっていた。ああ、成りたい、変わりたい、私だってアイドルになりたい。胸の前で子供のころからずっと持っていた、あるアイドルグッズのクッションを胸に押し付けた。身体の一部になれと願って。
岸正真宙
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