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【第12話の⑫/⑯】レモン亭 /小説

 『土井さんにお話したいことがあります。』私はそのメッセージの文面を見てとても驚いた。何かしらの期待が膨らむことはなく、ただただ驚いた。伊藤君からメッセージが届いたのはどれくらいぶりだろう。


伊藤君と知り合ったのは高校生の時だ。私がバイトをはじめたコンビニに彼がいた。出会いはありふれたものだ。同じコンビニでバイトするくらいたがら家はそんなに離れてはいないけど近所でもない。私も彼も控えめな性格で盆栽好きという共通点があって自然と仲良くなる。今までネット上でしか話し相手がいなかった盆栽についてリアルの世界で盛り上がれるのが嬉しかったのだろう。初めて出来た男友達だったと思う。


18歳になって彼は東京の大学に、私は家からでもなんとか通える京都の大学に進んだので、会う機会はめっきりと減った。高校時代は休みの日に2人でお出かけすることもたくさんあったので、私はだんだん伊藤君に惹かれていたのだと思う。けれど控えめな性格のせいか受験勉強のせいなのか恋愛に発展することはなかった。


私にはコンプレックスがある。誰かに迷惑をかけるものでは、多分、ないのだけれど、右手でできることは大概同じように左手でもできてしまうのだ。右手でお箸を使えるように、同じように左でも使える。左手でボールを投げると投げにくく遠くに飛ばないということもなく、右手と同じようにボールを投げられる。家族に言わせればなんて便利な左手、というがそれが普通の人とは違うことだと気づいてから随分悩んでいた。


私はある時、伊藤君にこのことを打ち明けたことがある。二人で海でも見に行こうと電車でちょっとした日帰り旅をしたときだったと思う。めったに人に相談することはないが、きっと伊藤君には心を許していたのだろう。伊藤君は、静かに聞いていて、便利だねとも大丈夫だよとも言わなかった。また、かわいそうだね、とも言わなかった。ただ、ありがとう、とゆっくり沈み込むような声で言った。私は、意外な言葉で少し驚いた。その言葉を解釈するのに何年も使うことになる。


伊藤君は、きっと私を受け入れてくれているのだろうと思うことは節々にあったけれど、ただこれ以上心を許し近づくと、後悔しうる何かを目にするのではないかと感じさせるものがあった。まるで夕暮れ時の山道から茂みの奥深くをじっと眺めている時に感じるような気持になることもあったのだ。伊藤君の奥深くに何があるのか、伊藤君のことをもっと知りたい、と強い好奇心に駆り立てられることもあったが、自分の身を守ろうとする防衛本能がなぜかこれ以上心の距離を近づけてはいけないとアラートを鳴らしていた。


私は、大学に進学してもたまに伊藤君と会っていた。人並みに彼氏ができて伊藤君にそのことを言うと、自分ごとのように喜んでくれた。それからお互い22歳で社会人になってからは、大学生のときのようにはいかなかったけれど、それでもたまに会っていた。そういえば私から誘うことはほとんどなく、だいたい伊藤君から声がかかっていた。ただプロポーズされて迷っているときはさすがに私からメールで連絡をした。伊藤君は、その人の人となりを説明したり私の気持ちを伝えるときに私が選ぶ言葉に注意深く耳を傾けていたのだと思う。メッセージのやり取りからはそう感じた。何か失礼なことを言ったのか、あるいは呆れられたのか、メッセージのやり取りはパタリと途切れていたが、『土井さんにお話したいことがあります。』としばらくの時間をおいて届いたメッセージは、直前に私が送ったメッセージを受けたものでは、文脈上は、ないもので、驚きがあった。


今、何を話そうとしてくれているのだろう。もやもやしていると1時間後に長文が届いた。伊藤君は、私がプロポーズを受けている今、二人で会うのは良くないけどちゃんと伝えたいことがあって困っている。でもそんな伊藤君のためにある伝言サービスのようなものがあって、少し手間がかかるけど、それを通して伝えたい、というのだ。一度そのサービスの提供者と会って段取りを聞いて欲しい、という。そもそも私は結婚にあこがれてはいたが、本心だったのだろうか。今となっては普通は結婚するよね、という固定観念にしばられ世間体のためにそう自分を洗脳していたのかもしれない。


でも、もしその相手が伊藤君だったら同じように思うのだろうか。伊藤君とは、ある種特殊な友達ではなく、交際していたら未来は、今はどうなっていたのだろうか。実は私はそちらを望んでいたのではないのだろうか。今からでもそちらの世界で生きていきたいと思っているのだろうか。自らその世界を切り開くことはしてこなかったけど、その世界が与えられたら少なくともその時はとても満足しただろう。


伊藤君はずっと私の横に近すぎず遠すぎずの距離にいた。私は伊藤君を強く望まなかったのは、望んではいけないという何かしらの力が私の中で働いていたからだ。伊藤君の心の深くにある何かまでも受け入れてはいけないと。しかし伊藤君が私の中から色あせることは一度もなかった。結婚するともうこのような関係を続けるわけにはいかないだろう。伊藤君がずっと声をかけてくれる状況に甘え、細くとも切れない糸でつながっていれば、もしかすると伊藤君と交際する未来が訪れるかもしれないという期待は常にあった。それもなくなる。今の彼氏に不満があるというわけではない。ただ仮定とはいえ、もし伊藤君と交際していたら結婚することになったら、と考える世界は私にとって空想だけではおさまらない現実感もあった。しかし、今のこのプロポーズをしてくれたという恵まれた状況を勇気をもって全て投げ捨てることも私にはできない。

 (続く)


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