【第12話の⑩/⑯】レモン亭 /小説
レモン亭に行くたびに小森と久本に奢っていると毎度3000円近い会計になる。貧乏学生にすると一回で3000円も喫茶店に払うのは大分と負担になっている。もう川村さんを疑いだすとキリはないのだが、確実にレモン亭の売り上げアップに貢献していることは間違いないわけだから、実は真の目的は俺のような客を引っ張ってくることなんじゃないのか、とすら思うこともある。そりゃレモン亭も商売だ、売り上げが上がるほうがいいに決まっている。
日雇いバイトを新たに1日して9000円くらいは稼いでおこうかと思い、深夜のパン工場のバイトに来た。たまに来る所でかなりの単純作業を朝まで行うのは正直キツイのだが、仕事が終わった後はもう2度と来ないと決めるのだが、日給がよいので、こうしてまた来てしまう。ここの日雇いに来るのは学生ばかりではない。明らかにおっさんもいるし、普段まずみかけないキモい格好をしているやつもいるし、こういうきつい仕事は男性が圧倒的に多い。そして俺もそうなのだが、髪が汚いやつが多い。手入れをしていない、ぼさぼさ、脂っこい。黒々していて艶のいいサラサラ髪の奴を殆ど見ることがない。
日雇いに来ているんだ、たいていの人はそうお金に余裕がないだろうし、上流階級の人のようにはいかないのだろう。ただ、こういう所に来て一緒に働く人と話すと自分が歩んできた世界が狭いことに気づくし、世界はとっても広く味わい深いことに気づかされるし、いかに自分が偏見を持って生きているのかにもまた気づかされる。そして自分はこいつらとは違うというつまらない見栄があることにも気づく。
「君、前も入ってたよね」休憩時間に話しかけてきたのは、多分ベテランの日雇いの一人の人だ。やたら腕が筋肉で太いのが印象で記憶にある。
「え、何か月か前にも来ました」
「だよね。ところでこの工場でお金の窃盗があるの知っている。噂じゃ犯人は長野ないかっていう話」と小さな声で言う。長野とは確か日雇いから派遣社員になった人で風の噂では仕事熱心な人だそうだ。俺のような末端の人は、普段正社員がいる部屋には入れないが、長野さんのような頼りにされている一部の人は別のようだ。
「本当ですか。あの人がそんなことしますか」
「長野が、競馬好きなの知らない?ありえないわけじゃない。それにここの社員は短い期間で異動で入れ替わりが多いけど、長野はここ長いから生き字引のような感じで重宝されているし、それをあいつも分かって従順な犬を演じているだけで、裏の顔があってもおかしくないし」
「あー、なるほど」
「だろ、ここの社員たって偉そうにしているだけで、一人も人格者なんていないし、そんなやつらに長野みたいにペコペコし続けてたらおかしくなるぜ。ペコペコするだけの価値がないとやってられないぜ」ポンと俺の方をたたき、タバコ吸ってくるわと喫煙所に向かった。
はー、めんどくせえ。どこに行っても集団があったらこういう足を引っ張るというか、自分たちのほうが優れているという優越感づくり、というものは大なり小なり絶対あるな。大きな集団のなかに小さなグループができて勢力を誇示したがる。どうでもいい。俺は日給さえ支払ってもらったらそれでいい、この工場のご事情なんて知ったことじゃない。
単調な作業がまだ3時間も続く。さあ頑張ろう。
やっと仕事を終え帰路につく朝方、解放された爽快感が心地よい。ここにいる人と仲良くなるつもりは毛頭ない。長野さんの話しかり余計なことに巻き込まれたくもない。だからそそくさに駅まで急ぐ。
「ねえ、駅までいくの?一緒に行こうよ」と声をかけてきて俺の爽快感を打ち砕くこいつは誰だ。こいつもベタベタの髪をしてやがる。気持ち悪いくらいニコニコしている。俺は目線を外し歩みを進めたのに、ねえ素粒子って面白いよねと、と話してくる。いるよなこういう人間の距離感がおかしいやつ。いきなり距離をつめてくる馴れなれしいやつ。勝手に一方的に話し続けるので聞き役をつとめればこっちは会話が楽という反面、うざい。
「あー、素粒子って物質を形づくる最小の粒子のことでしたっけ?」と答える。ここで無視するのは性格的にできない。
「そう、電子とか素粒子だよね。あいつらすごいよね」
「何がですか」
「だって、電子って色んな所に同時に存在しているのに、人が観測したらどこか1か所にしか存在しえない、んだよ」
「というと?」
「例えば、君が電子だとしたらだよ、ある時刻にだよ、駅にもいるし、この工場にもいるし、あそこの交差点にもいるってことだよ。同時に。君は一人しかいないのに。でも僕が君を交差点で見た、つまり観測したら、君は交差点にしかいなくなる。そして駅や工場にいた君はいなくなる、ってこと」
「ん?どういうことですか。一人しかいないのに3か所に同時に存在しているということですか」
「そう、そこが素粒子の面白い世界。」にわかには信じられない話だ。こいつが話しているからか余計にどこまで本当のことなのかと疑いが消えない。だらか思うんだよね、とこいつは続ける。
「5分後の未来に僕たちが体験することは1つしかないけど、実はそこには起こりえる無数の選択肢が同時に存在していて、僕たちなのか誰かの観測によって1つになるって思うと未来って決まっているんじゃなくて、可能性に満ちあふれているわけでしょ。すごいよね」すごいドヤ顔だ。思いがけずちょっと面白い話だ。でだと、と少し間をおいて続ける。
「5分前も過去も同じなわけでしょ。本当は無数の起こりうる選択肢が同時に存在していて結局1つのことが起きて、というのがつながって今があるわけでしょ。ということは、同時に存在していたけど実現しなかったものが過去にはたくさんあるわけじゃない。それって何なんだろうね」エヘヘと笑っている。なるほど俺は今晩パン工場の日雇いを選んだが、事実同じ時間で百貨店の催事場の設営のバイトに行こうかと思ったが行かなかった。そちらに行っていた俺ということもあったわけだ。ただこいつが言っているのはそういう俺が認識できている選択肢だけではなく、認識できていないことを含めた選択肢があったってことだろう。なんか面白いな。
ただ、こいつと話に花を咲かせる気は毛頭ない。だから俺はへぇーと力なく言って話の終了を暗に投げかけた。俺はパン工場を選んだが、どちらかではなく百貨店のバイトも同時に行けたらどうだ。お金は2倍稼げるじゃないか。もちろん現実的には体が一つしかないのだから無理だが、もしあの時に別の選択をしていたらどうなっただろうと思うことは誰にでもたくさんあるだろう。どっちかではなく、あれもこれも同時に実現していたらと思うこともあるだろう。過去をくやんでいて叶うならやり直したいと思う事の一つや二つは誰でもあるだろう。
空が明るくなってきた。不思議なもので街が明るくなってくると急に眠気が襲ってきた。
(続く)