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【第12話の⑭/⑯】レモン亭 /小説

 このビルの2階ね。私は伊藤君が何を伝えてくれるのかただそれを知りたかった。不安や期待はもちろん同時に心の中にいてやんちゃに騒いでいる。しかし、私は事実を確認したいのだ。


レモン亭に入り「予約していた三井です」そういうと定員のウェイトレスが、こちらです、と案内してくれる。テーブルには予約席と書いたプレートが置いてある。
「そちらがメニューです。ご注文が決まりましたらお呼びください。」そう言って席を離れる。ここまでは何もおかしなことはない。ただ雰囲気の良いレトロ感のある喫茶店の席に一人の客として着席しただけ、のようだ。外に目をやる。あー、なるほどあれが8時から私だけのメッセージに変わるのね。この席からは良く見える。何も遮るものはない。私はバックから読み取り表を取り出し、机に置き眺めていた。ここにある文字列をつなぎあわせると一つの文章になるということだ。


私は、8時になる前に読み取り表の使い方の練習をしていた。家でもしっかりと練習してきたつもりだが、やはりここに座ると緊張感が段違いだ。チャンスは1回、失敗は許されないのだから。いよいよあと1分で8時だ。いよいよ始まる。伊藤君が私に何を伝えるのかあと少しで分かる。私は必死に読み取り表に丸を付け続けた。最後の欄に丸を付けた時はもう9時をだいぶと回っていた。私は冷たくなったコーヒーを飲み、外を眺める。おそらくいつもとは何も変わらない平凡な景色であった。ここに伊藤君からのメッセージがある。私はノートを取り出して、先ほど丸を付けた文字を順に書き込んだ。途中から手が震え心が震え高鳴る感情を抑えることに必死になりながら、最後まで最後までつなげる。


私はノートを見返す。『心のトラウマから君は僕を救ってくれた。本当はずっと君と一緒にいたい。でもこれ以上君に望めない。結婚おめでとう。大好きだ。』何言ってんのよ。救われたのは私よ。体が微妙に震えている。このままノートを見続けると何かがはじけそうだ。あふれだしそうになる涙をおさえながら外に目をやる。う、うそっ。私は本能的に席を立ち店の入り口に急いでいた。交差点のビルの陰から伊藤君がこちらを見ているように見えたからだ。がむしゃらに1階まで急いだ。道を挟んだ歩道に、伊藤君はいた。やっぱり伊藤君だ。来てたんだ。


「由香」久しぶりに聞く伊藤君の声だ。これだ、伊藤君の声。私に陽を注いでくれた声。静かな街中に声が響く。私は何も言えず伊藤君からの続きを待っている。
「ありがとうな。君は俺の恩人だ。幸せになるんだぞ」今まで我慢していた涙が堰を切ったかのようにあふれてきた。
「何言ってんのよ救われたのは私のほうよ、馬鹿」私も負けずにお腹から声を出した。いや叫んだというほうが近かったかもしれない。その後の言葉を涙が嗚咽が許さなかった。私は人目を気にせずどれくらいの時間そこで泣いていたのだろうか。信号が青に変わり、停車していた車の往来が進む。青にどうして変わったのよ。車が邪魔し、伊藤君が見えない。気づいたときには伊藤君の姿はそこにはなかった。


私は悲しくて泣いていたのか、別れを感じて泣いたのか、湧き上がる何かの感情を抑えきれず涙したのか、あるいはその全てなのか頭がぐちゃぐちゃになっていてわからないままだった。伊藤君、私、12年前に戻りたい。どうしてもっともっと伊藤君とお話をしてこなかったのだろうか、どうしてどうして。


その晩、私はずっと思い返していた。今日までの伊藤君との思い出を。どうしてあんな方法をとったのだろうか、どうしてあのメッセージだったのろうか、どうしてメッセージを伝えてきたのだろうか。必死に、冷静に今日のことを解釈しようとしていたが、なかなか思うようにはいかなった。それは、私のせいで今を形作っているのだという自責の念に近いような後悔が常に漂っていたからだ。私は伊藤君が選択した未来を受け入れられずにいた。あの時こうしていたら伊藤君の選択はあるいは伊藤君との関係は変わっていたのだろうか、そういったたらればが私の頭をグルグルしていた。


もう伊藤君は私とは会わない、よっぽどのことがないと連絡もとる気はないのだろう。私のこれからの人生に伊藤君がいなくなる。うっすらと感じていたことだが、その可能性が確実にとても高まったのだ。それから何日かは寝る前になるといつも伊藤君のことを考えていて、寝る前はなぜか良くないことを考える傾向にあって、十分睡眠をとれなかった。私は、自分が納得できる答えに至ってはいないけど、伊藤君はきっと私のために最善の方法を選んでくれたのだと思うようになっていた。

私にとって伊藤君は恩人のようなものだ。伊藤君も理由は分からないけど同じように思ってくれているという。世の中にはソウルメイトという関係があるらしい。私たちの場合交際や結婚にはつながらなかったけどきっと私たちはソウルメイトなんだ。そして今ぐらいの距離感が二人のソウルのためにはいいと判断したのだろう。伊藤君に私の負のエネルギーを一緒に抱えてもらったように、これ以上一緒にいればお互いが抱える負のエネルギーが許容量を超えてしまうから、負担をかけられない、と言いたかったのだろうか。


今は、それで救われているところがある。だから救われたという所で欲張らずに関係を終わらそうということだろう。それが私のためということ。私たちはある時お互いの闇を共有しあい救いあったのだ。それは今、そしてこれからの未来を普通に歩んでいくにはとても意味があった。私たちは闇を共有しうる無二の関係ではあるが、共に二人の未来を作っていく関係ではない、伊藤君はそうあるべきだと考えているのかもしれない。二人の未来を共に歩めればどれだけ素晴らしいことか。しかし、それには取り返しのつかない代償が伴うのかもしれない。今でも12年前に戻りたい、という気持ちは消えていない。消えていないけど、私は前を向こうと思う。


 (続く)


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