【小説】夏の光
「夏の光はセミの鳴き声がする」
日差しが肌を焼くような感覚が日増しに強くなる7月半ば。夏休みを目前にした日曜日の午後3時。友香はスマートフォンに流れてきた高温注意の通知を見ないふりしてコンビニのイートインでアイスを食べていた。冷房の効いたコンビニをもってしてもあっという間に溶けていくソーダ味の棒アイスと格闘していた友香は、隣に座りカップアイスを外側から中央に向かって食べている小学二年生の弟、裕斗が静かに呟いた一言を危うく聞き漏らすところだった。
「え? セミ?」
「うん、セミの声、するでしょ?」
それだけ言って、裕斗はまたアイスに取り掛かる。丸いカップの外側から円を書くようにすくって食べていく様子に友香は、氷山が崩れて氷がどんどんなくなっていく北極の映像を連想した。
裕斗は時々、よく言えば詩的、わるく言えばとんちんかんなことを言う。勉強はすこぶるできるし、運動神経も悪くないが少々行動は変わっていた。例えば休み時間に図書室に行って授業時間になっても教室に帰ってこず、探しに行くと図書室の前の廊下で借りた本をずっと読んでいたとか、ありの行列に夢中になって体育の授業中に行方不明になったとか。
今年の担任の先生からは三者面談で、独特な世界観がありそのユーモアあふれるセンスでみんなを驚かせて楽しませてくれます、などとオブラートに何十にも包まれた変わった子認定を受けたらしい。おそらく担任も苦言を呈したわけでなく、変わった子ではあるがその一面を好意的に受け取っているからこその言葉だろう。不思議な子だがクラスにはちゃんと溶け込めてますよと。変わった子と言われてショックを受ける親もいるだろうが、三者面談から帰ってきてその話を友香にした母は笑いながら「誰かを傷つけたり、困らせたりしているわけじゃないからいいのよ。独特な世界観、なんて面白いじゃない。絵画でも習う気ないかしら、あの子」と近所の絵画教室を検索していた。
「友香ねーちゃん、アイス、とけてる」
「あ、やば」
裕斗に気を取られ均等にアイスを食べるのを忘れていた友香は裕斗の言葉に慌ててアイスの溶けた部分を舐める。氷のところより濃いソーダのさわやかさが口に広がった。
形を保っているのが不思議なくらい溶けた残りのアイスを一気に口に入れてしまう。口内で溶かしながら裕斗を見ると裕斗のアイスの氷山も残りあと一角になっていた。裕斗がそれを食べきったのを横目で確認しながら、友香はアイスと一緒に買ったペットボトルのお茶を飲んだ。裕斗の前にも同じお茶をキャップを緩めてから置く。小学二年生はまだペットボトルキャップは難しいらしい。
「ありがとう」
「母さんからお金もらってるから気にしなくていいよ」
友香が言うと、裕斗は頷いてお茶を飲みはじめる。裕斗が一息付いたらコンビニから出て、日差しに焼かれながら家に帰るのだ。ガラス張りの向こうアスファルトの地面が油を引いて熱された鉄板のように蒸気とともに光って見える。
「ねーちゃん、高校、たのしい?」
突然の問い掛けに驚いて裕斗の顔をみた。裕斗は、手に持ったお茶から視線をそらすことなくもう一度、たのしい? と言った。
「楽しいよ。部活とか、友達もできたし、勉強はちょっと大変になったけど」
「そっか、ねーちゃん、トゲの人じゃなくなったもんね」
「トゲの人? 」
「そう、トゲトゲしてて、触るとケガするぞって感じの人」
僕にはそうじゃなかったけど、お母さんにはそうだった。そう続けて、でも大丈夫だもんねと裕斗は楽しそうに笑った。
「もう、なかよし」
友香は、何とも言えない気持ちになった。裕斗が言っているのは友香が反抗期と受験ストレスで荒れていた頃の話だろう。二年前のことだ。だれにでもある、思春期のモヤモヤやイライラ、それを友香は母にぶつけた。中学の友人関係もうまくいかずに何度か学校を休んだ。友香にとっても母にとってももう過去の出来事で、笑って話ができる。ただ、裕斗にはちゃんと話をしたことがあっただろうか。裕斗の前で母と喧嘩したことはなかっただろうか。
「セミはね、長い間土の中で暮らしているんだ」
なにも言えずにいる友香に、裕斗がニコニコと話しはじめる。友香はショックを受けた頭でセミを思い浮かべる。
「7年、だっけ」
「日本には7年も土の中で暮らしている種類はいないんだって、だいたい2、3年で4、5年ってのもいるよ。セミによってちがうんだって」
「そうなんだ、しらなかった」
「ぼくもしらなかったんだ。一昨日、先生に教えてもらったんだよ」
そう言って裕斗は嬉しそうにセミの飛ぶ真似をした。友香がそれをみて笑うと裕斗はさらに目を輝かせてさらに激しく手をばたつかせる。店員に睨まれるまでそれは続き、肩で息をしながら裕斗は友香に笑いかけた。
「ぼくは知らないことがいっぱいあるんだ、友香ねーちゃん」
それは私も同じだと、友香は思った。セミが土に中で暮らす年数だって、夏の光がセミの鳴き声するなんてことも、裕斗のことだって、友香はなにも知らないし気がつかなかった。
生まれてすぐに土に潜り、何年もかけて大人になるセミは、暗闇の中何を思うのだろう。一生を懸けた孵化の末、ぼくはここにいると存在を叫びつづける小さな命。二年前、友香も母も苦しかったが、裕斗も苦しかったのだろう。その中でも静かに確実に成長を続け、裕斗は今、知りたいと生きていると全身で欲していた。
友香は裕斗と9歳しか離れていない。一般的にはまだまだこどもだが裕斗にとっては一番身近にいる頼れる姉なのだ。今は。かもしれないが、それでもすこしくらい、いい格好はしていたい。
「裕斗はこれからたくさんのことを知るんだよ」
友香がそういうと、そうなんだよ、と裕斗が友香の腕に甘えるようにしがみついた。
「ぼくはこれからいろんなことを知りたいんだ。とりあえず、ねーちゃんが食べてたアイスの味とかね?」
いたずらが成功した時の笑顔で裕斗は、友香を見上げる。友香はため息を一つついて、いつから計算し出したのかと思案する。おそらく、セミの土の中で過ごす年数当たりかと脳内会議に決着を付けて、立ち上がった。
「だめ、アイスは一日一個でしょ」
「けちー」
「ほら、帰るよ」
もう一個食べたいーと駄々をコネる裕斗の頭を撫でて、また来週、といってやれば、約束だからねとすぐに笑顔が戻る。
やる気のない店員の挨拶に背中を押されて外に出ると、湿った熱気が全身を覆った。強い日差しの眩しさに目を細めて、手で傘を作りながら空を見上げる。そして絶え間無く聞こえるセミの声。
「なるほどね」
思わず呟いた一言に、裕斗が満足げな表情でこちらを見上げる。そしてご機嫌に鼻歌を歌いはじめた。
「来週はー何のアイスにーしようかなー」
裕斗の調子外れの即興ソングはセミのバックコーラスと夏の日差しのスポットライトに照らされて、友香には輝いて見えた。