ショートショート『店は孫のみゆきに任せる』
「ただいま」
木製の扉を押して開けた。たてつけが悪く、思ったより力がいる。ここも直しが必要なようだ。温かくも冷たくもない埃っぽく淀んだ空気がそこにはあった。
「よし」
埃で白くなった床に薄い茶色の足跡をつけながら窓を開ける。止まった時間は急速に動き出す。
祖母は小さな喫茶店を営んでいた。
メニューはコーヒーと隣のケーキ屋から仕入れる日替わりのケーキのみ。少ないメニューのかわりなのか、壁一面の本棚には本が並べられている。カウンター奥にはCDや楽器が乱雑に置かれていて、異国の音楽がいつも流れていた。
お客さんは本棚から自由に本を読んでいい、リクエストすれば好きな曲もかけていい。楽器も使い放題。町の本好きや音楽好きにひそかに人気の喫茶店。
「本と音楽があれば人はどこにだって行けるのさ」
それが祖母の口癖だった。
兄の大学受験を控えていた我が家は居心地が悪く、小学生の私は許される限り祖母の店に入り浸っていた。
本を読む常連さんと並んで図書室で借りてきた児童書を読む。次第に本棚の本に手を伸ばすようになった。常連さんに楽器の弾き方も教わった。音楽の楽しみ方も知った。
私の世界はこの店の中に無限に広がっていた。
「そろそろ店やめるよ」
足を悪くした祖母に言われたのは、高校二年生の秋のことだ。そのころには店をかなり手伝うようになっていたし、このまま店を継いでもいいと思っていた。祖母はそれを許さなかった。
「本と音楽はいつもあんたの側にいる。いっしょにどこまでも行っておいで」
喫茶店が閉まると、私の世界は思っていたよりもちっぽけだと気づかされた。
広い世界を一人で旅しているような気分だった。疲れると、本を読んで、音楽を聴いた。
世界は楽しく華やかでそして、残酷だった。いろんなことを知り、受け入れ、手放し、無くした。
けれど、本と音楽はいつも私の側にいた。
「おばあちゃんの店、私にください」
遺言開封より前に私は親族に頭を下げた。