綺譚
山から海へ向かう最終日、朝露に濡れる森の中をひとり散策して撮り納め。
山歩きの心地よい疲れと、満ち足りた気分で鳥居を出て、開店したばかりの茶屋に入り、珈琲をいただく。
そこは、訪れた初日に入ったお店で、黒髪をまとめた色白の女主人は私のことを覚えていてくれた。店内に飾る花を活けながら「写真と散策は楽しめましたか。」と話しかけてくれる。「はい。今日が最後です。」と言うと、「旅行はいつもおひとりなんですか?」と。
私が「写真はひとりでないと撮れないので、撮影のときはひとりです。」と話すと、女主人は涼やかな声で「私は、旅行はひとりでしか行かないんです。好きな時に、好きなところへ行きたいから。人と一緒ではできない。」ときっぱりと言い切る。
ほぅ、と思い、「このお店もひとりで切り盛りされているのですか。」と尋ねると、「そう。人と一緒に働くのは好きじゃないの。ひとりがいい。」とのこと。
「写真は一から十まで、すべてひとりでできるところが気に入っています。」と言うと、「ほんとうに、その通りです。」と深く同意してくれた。
まるで、巫女さんのような不思議な女主人であった。
茶屋の女主人に別れを告げ、古い苔むした石畳の旧参道を下っていくと、参道の入口に、白い小さな乗用車がトランクを開けた状態で停まっているのが見えた。
近づくと、道の脇に80歳はゆうに越えたと見える男性がふたり、三脚をたててカメラのファインダーをのぞき込んでいる。会釈をして通り過ぎようとすると、ひとりがにっこり笑い、「モデルになってくれてありがとう。」と声をかけてくれた。私が歩いて来るところを撮っていたらしい。ふたり共、とても小柄で華奢、話し方はゆっくり穏やかで、まるで旧参道の途中にいたお地蔵さんのよう。
「ご旅行ですか?」と聞くと、もうひとりが「ここは、日本の道100選に選ばれているからのぅ。来てみた。」とうれしそうに話す。
「昨日はここから参道を歩いて登りました。気持ちがよかったですよ。」と言うと、興味津々といった様子で「どこまで行ったか?楠木正成の墓まで行ったか?」と聞く。
ここの本社から更に登ると、三ノ宮の近くには楠木正成の供養塔がある。そこは白山への登拝口でもあり、別名越前馬場とも呼ばれる。だが、今いるところからは、坂道をかなりの距離歩かなくてはならない。ちょっとした登山だ。
「昨日行きました。本社の外れに若宮神社があるのですが、そこの杉の木がとてもよかったです。」と伝えると、「じゃぁ、そこまで行ってみるかのぅ。」とにこやかに答える。
その後、私は振り返りながら田んぼ道を歩き、「幸福駅」というレストランでお昼をいただいたのは、こちらに書いた通り。
この日いちにちの出会いは、不思議な、そしてひどく幸福な体験だった。