せめて反骨精神を持ってくれよ
こんなことを裏で考えながら小説を書く人間は大変だなぁと思った。
どうしたらエモい小説が書けるかわからない人へ
— 本下昌輝@愚道一休 6/5発売 (@musketeers10) August 4, 2024
エモい小説が書くための24ヶ条を抜き出してみました
これ以外にもこんなエモい書き方あるでって人はリプくれ pic.twitter.com/kCyVvkLMOh
世の中には小説教室に通ったり文芸学科に通ったりしてどうにか書こうとする人間もいるわけだからふしぎだ。宮部みゆきさんとかもまさにそうして出てきているわけだし。
とはいえ、教壇で小説をうまく書くコツは~とか説かれたり、あるいは自分の書いたものを教師に採点されたりとかしたら、ぼくなら机を蹴り飛ばして出ていきたくなるけど、そういう性質って作家とは関係ない領分の話なのかもしれないな。
その教師が作家であったり、あるいは大作家であったりして、なぜこちらが書いたものを採点できるに能うだけの存在と信じられるのかは心底わからない。この書き方は同世代なら伝わるだろうとか、若い子にはわかってもらえるだろうけど逆は無理だろうとか、そういう第三の目の感覚も持たないまま小説を書きはじめることが果たしてありえるのだろうか?
いや、げんにありえるわけなんだけど。
そういう視座がないままに小説を書きたがるというのがいちばん理解できないことなのかもしれない。
ベストセラーになりたいという野望はともかくとして、商業デビューしたいくらいの精度でいいなら、小説を書くにおいて大事なのは、小説を書く以外のことをすることだろうなというのは、この5年ずっと変わらない感覚だ。
自分の狭い原稿用紙の外を見てほしいなという感想を抱くアマチュアの原稿がとにかく多い。ほとんどのひとに足りないのは、自分がなにを言ったら相手がウケて、どういう行動を取ったら場がシラけたかを、きちんと把握する能力だ。
エンタメ小説なんて、「おっ、この時間はどうやら相手が退屈せずに済んでいるな」の感覚だけで全部済むというのが正直なところだ。つまらない時間が長い=つまらない小説なんだから。
突き詰めればそれだけのことなのに余計なことを長々話してどうにかマネタイズしていく。われわれは経済の動物なのだな。