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38歳、胃の手術を受け、入院したときの話
胃の腫瘍の手術を受けた。そのときのことを綴りたいと思う。手術や、術後の様子・痛み、リハビリ、病院のことを書くことで、今後同じような手術(特に同じような腹腔鏡の手術)を受ける人の参考になればと思う。また、手術や入院、病院について感じたことを書いた。興味のある方はまずは、概要を見ていただきたい。
概要(手術、この記事のこと)
手術は、胃の上部(食道に近い部分)の胃粘膜下腫瘍(胃のSubmucosal Tumor; 胃SMT)を腹腔鏡・内視鏡合同胃局所切除術(Laparoscopy Endoscopy Cooperative Surgery; LECS)という術式であった。術後4日ごろ、体力が戻ってきた段階で、思い返すように書き始めた。一部正確さに欠ける点がある。また、個人の経験と感想である。固有名詞はなるべく使わないようにした。
プロローグは腫瘍を切除するまでの過程などを少し書いている。興味がなければ飛ばしていただいて、入院~手術後2日目くらいまでの話が、文章量としては多く、手術や手術前後の流れがイメージできるのではないかと思う。流れやスタッフの方の対応は病院によって異なると思われる。
プロローグ
2012年に初めて見つかった胃の腫瘍、バリウム検査で「影のようなものが見えます。腫瘍の疑いがあり、精密検査を受けてください。」とのことだった。そんなはずはない、20代前半で、こんなに健康なのだから、と思った。仕方なく言われた通り、初めての胃カメラ(内視鏡検査)を受けた。今でも覚えている。鎮静剤(眠る薬)で胃カメラの検査を受けるというやり方は当時はなく、苦しくて、何度も嗚咽し、検査される先生を困らせた。内視鏡検査の結果は「さらなる精密検査の必要あり。胃カメラで腫瘍を触ってみると固いような、固くないような、、、」という記述。
2012年に見つかった腫瘍だが、しばらくは、「何も症状がなく、健康に過ごせているのだから」ということで放置をしていたが、2018年から、あるきっかけがあり、また再度、定期検査をするようになった。このときは超音波内視鏡で腫瘍の一部を採取し、細胞診を行った。結果として、腫瘍のなかでも良性の平滑筋腫と診断された。ただ、変異する可能性もあるので、定期検査をしたほうがいいということで、半年に1回、もしくは年に1回、継続して定期検査をすることになった。定期検査を継続していたところ、2023年の暮れに、先生から、「別の病院の知り合いの先生を紹介するので、切除されたらどうですか?異常がなかったらなかったでこの検査を毎年続けるのも負担だと思います。」という話をいただいた。
突然の話に驚いたが、先生の話し方の雰囲気から、紹介をして定期検査をクローズさせたいというような雰囲気にも見えた。雰囲気を感じ取ったこともあり、「わかりました。紹介先の先生と相談してみます。」と返事をした。
後になってわかったことだが、その先生は病院を退職され、独立されていた。それを知ったとき、僕のことを気遣って定期検査をクローズしてくれたような気もした。
入院前のこと
2024年12月 紹介先の病院
2024年は仕事が忙しく、落ち着くまで、一年かかった。
2024年の暮れに、仕事が落ち着いたので、紹介された先生のところに伺った。病院の予約時、予約受付担当の方に、何度も(5~6回)、「紹介状はありますか?」「本当にありますか?」「本当に●●先生あてですか?」と何度も聞かれたのが印象的だった。どんなパスワードよりも強固なセキュリティのように感じた。セキュリティを解くには時間がかかる。
12月19日の初診にて、先生の病院でも内視鏡検査したいということで、一週間後、12月27日に内視鏡検査をすることになった。初診から、内視鏡検査までのスピード感が早く感じた。紹介状を発行してもらってから一年経過していて腫瘍の状態も確認したほうがいいという話でもあった。
内視鏡検査の結果、先生に言われたことは、
紹介状の通り腫瘍は大きくなっているようにも見えるし、あまり変わっていないとも見える。
(以前の病院での腫瘍の一部の検査)細胞診で平滑筋種と判断されているので、腫瘍全体を切除し、評価したとしても平滑筋種の可能性が高い。
腫瘍の場所は、胃の中でも食道に近いということだが、狭窄の可能性は少ないと思われる。同じような場所での手術をしたこともあるが狭窄はなかった。
手術をするとなると術式はLECSで行う。消化器内科の先生と話して、1月28日がいまであれば空いている。
手術をせずに経過観察を継続するか、この機会に切除してしまうか。結局は、悪くなってから切除するか、今の若いうちに切除するか、ということになると思う。どっちでもいいと思うが、どうする?
言われたことはその通りだし、非常に端的だった。あまりにもあっさりしていたので、その場で回答するのには躊躇した。定期検査でお世話になっていた先生の言う通り手術をする気持ちではいたものの。
「一度、少し考えさせてください」と言って、12月27日は終わった。年末年始に会った家族、会社、友人、仲のいい取引先に話をした。誰一人、反対する人はいなかった。特に会社の人には、「やったほうがいい」ということで、会社を休んで手術をさせてもらうことになった。ありがたい。
ただ、家族に対しては、いままで、「腫瘍は特に問題がなく、大丈夫」とだけ話していたため、手術という急展開な話には驚いていた。反対はしなかったが。
親しい人に話をして決心がつき、2025年1月9日に「手術をお願いします。」と先生に話をした。その後、入院センターで申し込みを行った。
入院前(外来時)に行った検査
血液検査
肺活量の検査:全身麻酔の手術をする際には、一定の肺活量がないといけないらしい。
心電図の検査
胃の内視鏡検査
以降の記事の説明
入院日から日を重ねる形で、行ったこと、感じたこと、リハビリ、痛み、食事などの項目ごとに記事を書いていきたいと思う。
2025年1月27日(月) 入院日
自宅にて
8:00ごろ
起床。せっせと身支度。あれないかな。これないかな。前日の準備の不十分さを痛感。仕方ない。前日、前々日とバタバタしていた。
9:30ごろ
予定よりも出発は遅れた。パンパンのバッグだったので、電車では座りたいなと思っていたところ、幸運にも座れた。Thanks, God!
病院にて
10:30ごろ
入院センターに到着。何とか予定の時間には到着できた。必要書類を提出すると、すぐにエレベータで病棟の階に上がってくださいといわれた。
入院申し込みのときに希望していた二人部屋が予約できていた。別の病院で検査入院したときは、2泊3日だったものの、6人部屋でいろいろとすごかった経験から、なるべく人数の少ない二人部屋にした。また、病院の事情で4人部屋(無償)の空きがない場合は、4人部屋(有償)にさせてほしい(費用負担は自分)ということだったので、それだったら、二人部屋とも金額が変わらないという気持ちもあった。
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消化器外科の病棟にて
病棟のスタッフステーション、に着くと、看護師さんから必要書類の記入や体温測定の依頼があった。その後、部屋へ案内された。部屋に案内されると、電気やテレビ、冷蔵庫、収納の説明をいただいた。
入院した日は、次から次へと手術に関する説明があった。
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説明については、専門的な話でも、端的に目的、メリット、デメリット、問題が起きた時の対応方法を話していただいた。基本は同意することがほとんどである。専門的な知識がないので、その場で、同意していいかどうか、きちんと判断するのは難しい。手術をするとなったら先生を信じるしかないところはある。ただ、同意書には「手術をやめたいとおもったら、、、」と書いてある。最悪、同意後に手術をやめることも可能のようだが、その場合には理由が問われると思う。
このタイミングで術後の合併症が16項目あることを知った。手術を決断する前に知りたい気持ちもあった。しかし、手術をする気持ちが大きかったから仕方ないかとも思った。
また、この同意書で重要だと感じたのは、急変が起きたときの対策、合併症が起きたときの対策が明確に書かれていたことだと思う。
夕方に回診があり、紹介いただいた先生や執刀医の先生、その他、消化器外科の先生方がいらっしゃった。チームで行われている様子。わいわいしていて雰囲気のよさを感じた。また、こんなに大勢でくるのかと思った。回診というとドラマ白い巨塔のイメージだが、全く違った。この日は「明日はよろしくお願いします。手術後はなるべく早く歩き始めてくださいね。」という話で終わった。
病院の消灯は22時。
食事(入院日)
昼、夜、普通食が出た。夕食後、下剤を飲むことになった。21時以降は何も食べないように、飲み物も飲まないようにということだった。
2025年1月28日(火)手術当日(手術前)
病院の起床時間は6時。ベッドが変わったせいか、手術がせまっているせいか、あまり眠れなかった。この日は何も食べられない、飲めない。ただ手術に呼ばれるのを待つ。
手術は、早くてお昼前の11時頃、遅くて13時くらいということだった。早いといいなと思っていた。待っていても何も食べられないから。術後の回復もその分、遅くなるかな、とか、先生が一つ手術したあとだと疲れてないのかな、とかも思ったりもした。あとで聞いた話だが、早く手術が終わると、翌日まで色々な装置を身に着けていないといけないから、手術は遅いほうが患者としては楽だと思う、ということを看護師さんが言っていた。
11時には呼ばれなかった。前の手術が伸びている様子。12時になると、看護師さんが来てくれて、前の手術は終わっている、呼ばれたらまた来ますね、ということを伝えてくれた。個人的には、13時ごろまでお昼休憩で、そのあと、14時くらいからかなぁと思っていた。13時に看護師さんが来てくれて、13:20手術室到着で来てください、とのことだった。急な到着時刻に、少し動揺した。少しの動揺で済んだのは、12時くらいに看護師さんが今の状況を伝えてくれたからだと思う。
トイレをすまし、手術着、T字帯をつけて、部屋で待った。看護師さんが、13:19ごろ来てくれて、付き添って一緒に手術室に向かった。従業員専用のエレベータで手術室へ。
手術室の入口には警備室のようなところと、ロッカーがあった。天井が入院病棟の階よりも高い、3m以上あったと思う。機械音がしていた。手術室の看護師さん二人が迎えにきてくれた。名前と手術の箇所、アレルギーの有無などを確認した。このとき、PCのマウスをにぎる看護師さんの手が震えていた。ハードな仕事なのだろうと感じた。手術用の帽子を渡されてかぶった。付き添いの看護師さんが申し送りをしてくれている。もう一人の手術室の看護師さんが隣にいてくれたので、雑談をした。天井が高いですね、とか。手術は初めてです、とか。自分が話していると話の流れで気を使ってくれて、「お仕事は何をされているんですか」と優しく聞いてくれた。「装置のメーカーで働いています。手術をするということで快く休みをいただきました。ありがたい話ですよね。」と話をした。ポジティブな言葉を口にしたせいか、手術の緊張もどこかへ行った気がする。話しているうちに、いざ、手術室へ。手術室ではばたばた準備が進んでいる。
手術室には、前日話をしてくれた麻酔科の先生、手術の説明をしてくれた先生、内視鏡検査をしてくれた先生などたくさんの先生と看護師さんがいた。みんな帽子とマスクをしているので目しかわからない。しかし、先生方は笑って談笑していてピリピリした雰囲気はなかった。
指示された通り手術室の看護師さんに付き添われながら、手術台まで歩いていき、一度座ってから横になった。初めて乗る手術台。背中には滑り止めのゴムの感覚。手術中、滑らないような配慮がされているのだろうか。手術台の横幅は肩幅より少し広い700mmくらいか。寝返りは打てない広さだった。天井にはライト、カメラが見える。ライトはドラマなどでも見るようなやつだ。他にも天井に機械が取り付けられていたり、背の高い装置もある。天井の高さはこのためだったのかと思った。看護師さんが「体が冷えないようにカバーをかけますね」と声をかけながら、体に保温用のカバーがかけられた。それから、心電図、血圧計、酸素量を測るシールが、次々と取り付けられていく。
次は背骨付近に硬膜外麻酔の注射をしていく。体を右に向けてくださいの指示で横になった。手術台が狭い分、両脇で看護師さん、先生が落ちないように支えてくれる。背中全体を消毒して、その後、確か、上から数えて9番目の背骨あたりに注射針をいれていただいた。どうしてかわからないが、胸のあばら骨の部分が締め付けられるような感じがして痛いと伝えた。針を入れなおしてくれたのか、時が経過したせいかわからないが、胸の苦しさは次第になくなっていった。声かけで確認をしながら注射をいれていただけたことで少し安心ができた。
仰向けに戻ってください、ということで、戻る。そして、人工呼吸器がつけられた。人づてに聞いていたが、消毒液のような独特の香りだった。すぐにその香りはどこかにいった。腕から入ってくる点滴のスピードがあがったのがわかり、いよいよ眠りにつく感じがした。「もう眠りますか?」と聞くと、看護師さんが先生に確認してくれて、「そうですね、眠っていきます。」という回答をもらえたので、「よろしくお願いします」ということを言って、眠りについた。
2025年1月28日(火)手術当日(手術後)
気づくと、何か声をかけられている。手術終わりましたよ、というような内容だった気がするが、はっきりとは覚えていない。急ぎのスピードでベッドが動くのがわかる。どこか切迫しているような雰囲気もあった気がする。部屋に着くと、看護師さんが急ぎで布団をかけてくれたり、装置の線を整えてくれたり、色々としてくれている。足に血栓予防のポンプが取り付けられた。シバリング(震え)が起こっていたので、電気毛布をかけてもらった。シバリングの原因は膀胱にたまった尿のように思え、尿意を訴えると、管がついているのでそのまま出していいですよ、ということだったので、尿をだすようなイメージでお腹の力を調節すると、次第に楽になっていき、シバリングも落ち着いていった。「手術着が裏表、逆だ。手術室で脱がしたのかな。」という看護師さんの声が聞こえた。もしかしたら最初から逆だったのかもしれないが、真相は不明だ。
部屋のベッドは窓側だったので、外が暗いのがわかった。手術時間は短くて2h、長くて4hということだったので、昼に手術室に行ったことを思い出すと、手術が長かったのがわかった。目が覚めたのが術後少し経って意識が戻ってから病棟の部屋へ移動ということもあった。何時か看護師さんに聞くと、「21時くらいですよ。手術は予定より長くなりました。」と教えてくれた。
部屋についてから感じたことは、
呼吸がいつもと違う。少し浅く短いような。
眠いような、眠くないような。
体が動かない、熱い。
血栓予防のポンプが周期的に動いている。PWMのような波形の周期で加速・減速を繰り返していた。小さい2人のおじさんがねじ巻きをしてくれているような気もした。
右の脇腹にプラスチックの棒がささっている。。。ドレーンというもので、術後腹腔内に貯留する血液・リンパ液などの排出や、術後合併症の発見を目的としているものであったが、体にささっているのはやはり衝撃だった。
その他、硬膜外麻酔部分から入れている痛み止めや、点滴、膀胱留置カテーテルなど、色々な器具が体につけられていて、動きがとりづらい。
とにかく、いつもと違う感覚で不安な気持ちでいっぱいだった。全身麻酔で血圧が低くなっていたせいもあるだろう。腹腔鏡だと切らないから、回復も早いらしいよ~とか友人、知人に聞いていたので、手術前の気持ちは軽かったが、このときだけは話が違う、と思った。死ぬ間際とかこんな感じなのかなとも思った。
いまとなってはよく覚えていないが、いろいろなところが痛かったりしたせいか、地獄に近いなと思った。星野源著「蘇る変態」と、星野源作詞作曲「地獄でなぜ悪い」を思い出した。曲の騒動感は、術後すぐの体の状態とリンクし、「単純な温もりだけおもいだす」という歌詞は、本当にそうだなと思った。温もり。。。もちろん、自分の闘病は源さんと比べ物にはならないのだろうけど。
看護師さんが1時間〜2時間おきくらいにバイタルを確認しに来てくれた。バイタルといえば、クラムボンのバイタルサインだなと思った。バイタルサインほどのエネルギーのある歌を脳内再生できる力はこの時にはなかった。
体が熱かったり、痛かったり、寝返りをうてなかったりして、眠っても、1時間くらいで目が覚めては、寝付けずしばらく時間が経過し、という夜を過ごした。ただ、1時間半~2時間おきにバイタルを測りにきてくれるおかげと、少し話ができたおかげもあって、時間が過ぎるのはそれほど苦ではなかった。
2025年1月29日(水)術後1日目
6時が起床だったが、とにかく朝がきて、一晩終わったという感じだった。起き上がるにはまだ体が痛い。まだ一日も長そう。
痛い、苦しい、という感覚から、何もする気がおきない一日だった。ありがたいことに心配のラインなどをいただいたりしたが、返すのも一苦労だった。動画を見たり、音楽を聞いたりする気にもなれなかった。
朝回診にて、多くの先生がいらっしゃった。執刀医の先生は「(手術)大変だったよ~。あと、頑張って歩いてね、座る姿勢になるだけでも違うから。」と言われた。全身麻酔のため呼吸が小さくなっていて、寝たきりのままの状態だと、肺が小さくなってしまう無気肺という合併症や、血栓ができてしまう可能性もあるということだった。合併症だけは避けたいと思い、リハビリを頑張ろうと思った。
先生がベッドの頭の高さを18°まであげてくれて、枕も添えてくれた。術後すぐは、気道確保のため、枕がだめだったので、夜の間は枕なしだった。こういうところにもちょっとした優しさを感じた。
午前中のうちに、足のマッサージ機は取り外された。
リハビリ
お昼も近づいた午前中、看護師さん二人にサポートされ、病棟の階を1周するということになった。痛みをこらえ、立つのでもやっと。立って、廊下に出たところで、足先、手先が冷たくなり、神経の感覚が遠くなる。「ダメです。」と看護師さんに伝えると、車いすに乗せてもらい、部屋にベッドに戻った。歩けなかった。血圧を測るとやはり低い。看護師さん「だめですね。」と一言。とりあえずしばらく安静に、ということで、ベッドにうずくまった。
その後、少し目をつぶり、眠った後、意識がはっきりしてきたので、もう一度、立つ練習をした。辛かった。術後、PCはいじれないだろうから、せめて読みやすいものと思って買った雑誌「& premium」は表紙の絵を見るので精いっぱい。本を開いて文字を読む気にはならなかった。今号のテーマは「部屋と心を整える」。その前に、散らかっている自分の体を整えなくては。なんとか立てたので、その場で足踏みを10回程度。これを何度か行った。痛みと体の動かなさで、ベッドから体をおこすのも、ベッドから足を横に出すのも、そこから腹筋に力を入れるのも一苦労だった。体を起こして座った状態になる時に膀胱留置カテーテルがつっかかってくる。はじめての違和の感覚。体の動かなさはPCに例えると、windows 98が出たころ、起動に15分くらいかかる時代のPC「FMV-BIBLO」なみだった。
15時か16時ごろになると、少し歩けそうだったので、病棟を歩き出した。スタッフステーションまで来ると、午前中サポートしてくれた看護師さんに発見され、「え~!歩くときは一緒といったじゃないですか~!驚きましたよ~!」と言われた。看護師さんは驚いたあと、すぐに笑顔でかけよってくれた。笑顔、眩しかったです。それから、背中を軽く支えてくれて、一緒に部屋まで歩いて戻った。
病棟を一周でき、とりあえず、今日の目標を達成できた。満足感を感じた。入院されている患者さんの生きる喜び、高齢者の方のできたという喜びはこういうことなのだろうなと思った。
夕回診の時間、センター長(紹介していただいた先生)が遅れて一人で来ると
センター長「今日病棟何週した?」
自分「一周です!」
センター長「そっかぁ。。。」
(あきらかに物足りなさそう)
センター長「明日は頑張ってね!」
圧がすごかった。笑 こうして一日目が終わった。振り返ると検査もなく、大したことをしていないため、記憶が本当にない。
痛み(夜)
術後1日目の夜が一番大変だった気がする。ベッドの頭側を起き上がらせるが、角度が決まらない。地面に平行の0°に近づけば近づくほど、手術したあたりが引き裂かれそうな痛みを感じる。看護師さんのアドバイスで少し起こしたほうがいいですよ、ということで、20°~30°くらいにしたと思う。ただ、枕が高くてあわない。
また、相変わらず痛みで眠れなかった。苦しい、暑い、が繰り返しやってきて、体をもぞもぞと動かしては落ち着かない。寝苦しい感じ。背中から入っている硬膜外麻酔の痛み止めのボタン(1時間に2ml流れたと思う。)を押して、30分くらいすると落ち着くのがわかったが、1時間くらいでまた落ち着かなくなってしまう。
看護師さんに相談して、カロナールという痛み止めの点滴もできますということだった。肝臓に負担がかかるということや、点滴を入れてから、4時間あけないと2回目が使えないということで、悩んだ。薬には頼りたくない、という謎の意地。2時間くらいして、やはり耐えられなかったので、20時頃にカロナールをいれてほしいとお願いした。入れてもらってからは、寝苦しさ、暑さが落ち着き、血圧も下がる感じがして、眠りにつけた。おそらく4~5時間くらい寝たと思う。痛みがまた出てきて、夜中2時くらいにはまた起きてしまった。それから、6時くらいの間は基本眠れないまま、硬膜外麻酔を使って少し寝ては起きてを1時間ごと繰り返しながら、時間が経つのを待ったと思う。
食事
なし。
2025年1月30日(木)術後2日目
痛み(前日夜の続き)
6時頃になっても体調が落ち着かなかったので、痛み止めのカロナールをいれてもらった。さらに、8時に抗生剤、胃薬いれてもらって、そこで急に体が楽になった。体の感覚は前日と全く違う気がした。手術した部分が治ってきたタイミングだったように思う。こんなに違うのかと思った。痛み、暑苦しさ、はだいぶ落ちついた。あとはドレーンが入っている違和感が少し残るくらい。
検査
この日は、X線透視検査を行った。バリウム検査のような設備を使用したが、飲み込むのはバリウムではなかった。マンガンが入っているとかだったかな。黒い液体だった。先生の合図で飲み込むと、液体が胃の中に流れていくのがX線を通じてリアルタイムでわかった。検査によると、漏れがない様子。つまりは、術後合併症のひとつ、縫合不全は起きていないような状態だった。もう少し日が経たないと断定はできないが、いまのところは大丈夫ということだった。
リハビリ
この日は、体が楽になったので、歩けそうな気がした。ただ、体を起こしたり、立とうとするのはいまだに一苦労。歩き出すと、まだほんの少し頭がフラフラしていた。病棟を1回に2周できた。時間がたつにつれ、慣れてきて、1時間ごとに病棟を2周歩くことができ、この日はトータルで10周くらいした。
夕回診のとき、多くの先生と一緒にセンター長もいらっしゃっていただけたので、
自分「今日は10週歩きました!」
センター長「素晴らしい。。。」
他の先生がた「お~!」
うれしかった〜。
痛み(夜の部)
痛みはまだ少しあった。寝ようとすると少し寝苦しい、暑苦しい感じ。ただ、背中の硬膜外麻酔でいくらか落ち着きやすくなった。痛いときに押すPUSHボタンも押す回数が少なくなっていたと思う。長くて、4時間くらい続けて眠れるようになり、カロナールも使わずに一晩を過ごせた。ベッドの角度は18°~20°くらいまでは倒せるようになってきた。ただ、それ以上に倒すと、胸のあたりが痛む。まだ手術の傷口は完璧には治っていないようだ。
食事
この日は昼から飲水開始。GFOを溶かした水を飲む。ちなみに、GFO(ジーエフオー)は、グルタミン、ファイバー、オリゴ糖の頭文字をとった粉末清涼飲料で、消化管粘膜の機能維持を目的として開発されたらしい。
その他
この日から、2人部屋のもうひと枠の方が入ってきた。高齢の男性。のんびりできなくなってしまうのが少し残念。うなったり、いびきをかいたり、もぞもぞしたりして、ご迷惑をおかけするかもしれないので、簡単に挨拶をした。ご家族もご一緒だった。人柄のよさそうな方だった。他に誰もいない部屋を一人で満喫、、、ではなく、痛みで苦しんでいる時期に、周りを気にしなくてよかったのは、ストレスもなくよかった。この環境のおかげで順調に回復できた気もする。
2025年1月31日(金)術後3日目
朝回診にて、背中に入っていた麻酔の針を抜くことになった。抜いた後、麻酔が切れ、痛みが出るかもしれないということだったが、痛みはなかった。麻酔科の先生が、背中からの麻酔が重要という話をされていたのを思い出した。
その後、看護師さんに膀胱留置カテーテルを抜いていただいた。抜くときに尿道が切れてしまうこともあるということだったが、それはなさそうとのこと。お小水のときに尿が赤かったら呼んでくださいとのことだった。その後も、尿が赤いということもなかった。
熱が下がりづらかったのだが、原因は点滴部の腫れにありそうということで、夕回診で点滴が外れることになった。その代わり水分は自分で意識的に摂取するようにとのこと。まだ、食事はおかゆなどで水分が多く、お腹が張りがちだった。心配だったので、「やはり点滴をしてほしいのですが、、、」と先生に伝えると、「大丈夫です。こまめに水を飲んでもらえれば。」ということで、点滴はなしになった。体についているものはドレーンだけになり、いよいよ身軽な雰囲気になってきた。点滴を連れて歩いていないと、入院患者感がかなり薄れる。
痛み
背中の麻酔、膀胱留置カテーテルは抜けたが、ドレインが入っているため、寝ているときも寝返りなどが打ちづらく、背中が痛く4時間くらいしか眠れなかった。ベッドの角度はこの日も18°~20°くらいだったと思う。
食事
朝まで GFOを溶かした飲水。
昼から 三分粥開始。お粥だけかと思っていたら、ほかにも細かく刻まれた肉・魚料理やおひたしが出てきた。テンションがあがった。食事が出てきたことで、手術という異世界から離れ、日常が近づいてきている感じがしてうれしかった。量はそんなに多くなかったが、すぐおなかいっぱいになった。胃が痛むというよりは、張ってしまう感覚だった。無理に全部食べなくてもいい、ということだったが、残すのも申し訳ないし、むしろ食べたい、という気持ちが強かった。ただ、無理は禁物。結局無理せずに、残した。食べた量を見て、栄養士さんも次の食事をどうするか考えてくれている様子に感じた。夜の食事では、アサリのお味噌汁(アサリ無し)があって、出汁を感じたのも嬉しかった。食べるということは生きるということ。
2025年2月1日(土)術後4日目
もう2月。入院したときはすでに1月の終わりだったが、手術を乗り越えて、いろいろなものが体から取り外されていくと、月が変わったことにも特別な意味を感じる。
朝回診にて、ドレーンを外すことになった。ドレーンは直径10mm、長さは30cmくらい。定規みたいな長さ。こんなものが体の中に入っているなんて。体内に、この固体がはいっているということは、内臓の一つ一つの臓器の層も丈夫なんだなと思った。体内に入っているドレインも動かないよう固定されているのも不思議だった。
この日は、熱が37℃台で推移した。個人的にもぼーっとする感じがあった。まだ点滴をしていた部分が少し腫れていて固い印象。夕回診のときに、抗生剤を処方してもらうことになった。
天気予報では2/2、東京の平野部でも積雪の予報と言っていた。看護補助士の方が、雪ほんとうに降りますかね~、と言っていた。
22時ごろ、眠りについた。
痛み
この日くらいから、ベッドの角度は10°くらいまで下げられるようになってきた。0°くらいまでもいけそうだが、まだ少し違和感がある気がする。
食事
この日も三分粥。さすがにお粥が続くと、少し飽きを感じ始めた。贅沢な体だなと自分で思った。
2025年2月2日(日)術後5日目
朝5時ごろ、目が覚めた。ひさしぶりによく眠れたと感じたが、それでもまだ眠い。少ししたら、起床の時間になり、看護師さんがやってくる。
前日の天気予報は雪の予報だったがどうなったか。外を見るとどうやら雪は降っていないように見えた。それでも曇天。冬らしくてそんな日もあっていいと思った。電車で通われている看護師さんも多いようなので、交通に支障が出なくてよかった。
朝の採血のときに、ドレーンが入っていた穴を見ていただくと、染み出しはない、つまり、穴はふさがっているということだった。一日でふさがってしまうなんて人体の不思議を実感した。ガーゼで押さえていたものがばんそうこうのようなものに変わった。体につけていた管たちがなくなったので、この日からシャワーをあびれることになった。
朝の段階では、まだわき腹を伸ばすようなストレッチをすると苦しさや少し痛みのようなものが残っていた。ただ、朝回診のとき、先生にお腹を触診で強く押されたが痛みはなかった。
前日の抗生剤のおかげか、体温は徐々に下がってきていて、ぼーっとする感覚も薄らいできた。シャワーも浴びれたので、久しぶりにすっきりできた。
今日の検査としては、採血、レントゲン検査(一般)を行った。レントゲン撮影のとき、技師さんに「日曜なのに大変ですね」といういうと、「そうなんです」という返事。手術後動けない他の患者さんの検査のために、移動式のレントゲン撮影をされているのも見た。
夜の段階ではまだ少し痛みがあり、寝返りは打ちづらかった。
食事
昼食から全粥となった。ご飯に近いお粥。そのほかのおかずは、固形のものとなった。また一つうれしい。ただ、まだ、全部食べようとすると、おなかが張ってしまう。無理は禁物と思いつつも、嬉しくて食べてしまう。張っておなかに痛みを感じたが、げっぷをして空気を抜くと、楽になった。ニュースでお米の高騰を見て、当たり前のように出てくる病院食のご飯にも影響があるのだろうなと思った。病院食のお粥でさえも当たり前に出てくることがありがたいことなのだと思った。
2025年2月3日(月)術後6日
この日は3時くらいに目が覚めた。それでも、比較的眠れるようになってきた。トイレに行って、また眠りについた。
朝6時起床。まだ咳をしたり、右側に寝返りをうつと傷が痛む。
この日も、1時間おきくらいに歩くようにはした。
お昼前に、担当の先生と話ができ、火曜日退院できそう、ということで話がまとまってきた。
その他
退院のめどがたったということで、同じ部屋の方に報告した。退院後はどれくらいになるかわからないですが、おひとりでのんびりできると思います、と伝えた。退院について、笑顔でよかったですね。と返してくれた。やはりいい人だった。このときをきっかけとして、長くお話ができた。この話はまた今度、機会があれば書きたい。
2025年2月4日(火)術後7日 退院日
寝返りをしても痛みを感じることはなくなった。朝、起きると外は快晴だった。
体についていた針、チューブなどがどんどんとれ、腹腔鏡で開いた穴がふさがっていく様は不思議だった。最終確認の採血と、レントゲンの検査を8時の朝回診の前にした。
朝回診にて、採血は問題ない、ということで、正式に退院ということになり、退院手続きに移行することになった。次のことを一つ一つバタバタとこなしていった。
部屋着等のレンタル品の解約申込書
請求書の受領と清算
薬剤師との面談、退院後の薬の受領
片付け、ゴミ捨て
看護師さんはじめ、ご挨拶できる方にはお礼のご挨拶
看護師さんとの忘れ物の有無などの最終確認
終わったあとは、お隣さんとお昼12:30くらいまで1時間くらい話をした。
退院日のランチ
病院の近くに、有名ホテルのレストランがあったので、予約をしていった。ランチのショートコース。着くと、天井が高い。窓が大きい。カーテンのドレープがきれい。スタッフさんの対応も上品。さすがあの有名ホテル。退院後のお祝いということで、今までの病院とはまた別の非日常。コースの説明をしてもらい、胃に優しいものにできるか相談すると、前菜をサーモンのカルパッチョから、牛すじ肉のパテに変更できる、ということだった。主食は消化に優しいパンにした。スープはマッシュルームのポタージュ。メインディッシュは鯛のポワレ。どれも美味しかった。そして、デザートが運ばれるとそこには、「退院おめでとうございます!!」の文字。まさかのサプライズにおもわず笑みがこぼれた。 事前の予約電話で、手術後なので、胃に優しいものにできるか聞いていたのだが、その何気ない会話をこんな風に嬉しい思い出に変えてくれるなんて、なんて素敵なんだろうと思った。病院の看護師さんも患者さんを支えるために、ホテルのスタッフさんもお客様を喜ばせるために。人に対する仕事という点で、どこかつながりを感じる感慨深い出来事だった。料理はショートコースだったので、術後の胃にはちょうどいい量に感じた。とてもいい日だった。
終わって、病院からの電話で忘れ物をしているということだったので、取りに戻った。思わず看護師さんにランチのエピソードを話した。
こうして入院生活は終わり、家に帰った。家の観葉植物は1週間前と変わりはなかった。レモンの木には新芽が少し出てきていた。何も変わっていない部屋で時間の経過を少し感じた。
退院後のこと
退院後の日々の食事
退院日のランチの食事から、普通に食事ができることがわかった。慎重に食べなくてはいけないけれども。翌日からは、胃に優しいもの、消化にいいもの、と気にしていたが、普通のご飯も食べられる。日を追うにつれ、食べられると思って、手術前と同じような量を食べてしまいがちになる。そしておなかが張って痛みが少し出る、ということがあった。そこで、次のことを気を付けようと思う。
1日4食というイメージで過ごす。1回にたくさん食べない。
飲み込んでから、次のものを口にいれる。
一口につき、20回くらい噛む。
何口か食べたら、箸を置く。
箸を置いたら、姿勢をただして、深呼吸する。
看護師さん、看護助手さんからいただいた退院後のアドバイス
病院は平坦だが、街は段差などがある。街では、ちょっとした段差でつまづいたりする可能性がある。日常生活に慣れるまではきをつけて。(病棟の責任看護師さん)
手術後は、体力や体のコンディションが手術前の60%くらい。1か月くらいはもとに戻す期間と考え、徐々に体を整えるといい。(看護助手さん)
退院後の生活
手術後、おならが頻繁に出るようになって日常生活で困っている。調べたら、下記の記事(リンクあり)が出てきた。まずは食べ方に気を付けたい。
退院してから、日々感じることは、別の記事にまとめて書き残していきたいと思う。
2025年2月17日(月)術後20日 外来
腫瘍の評価結果:
平滑筋腫
手術について:
腫瘍が食道のほうまで伸びていた。食道を切ると狭窄の懸念があったので、食道は切っていない。腫瘍のみ切除した。
現在の状態:
胸やけはない。つまり胃酸の逆流はない、という証拠。いま処方している胃薬をやめてみる。
おならが増えた。
2/16にお酒を飲んだが、普通に飲食で来た。
2/17の検査:
血液検査、レントゲン検査ともに異常なし。
今後:
経過観察のため、半年か1年に1回、内視鏡検査・CT検査を行う。
病院スタッフの方々
先生がた(消化器外科)
夜遅くても回診に来てくれたり、一人でもきていただいたりしているのを見て、尊敬の念を感じると同時に、ここで手術してよかったなと思った。日曜の朝も回診にきていただいたときには驚いた。他の大学に所属されていたり、論文の執筆や学会など忙しいはずのに、患者さんへのケアが手厚く、ハートフルだと感じた。手術の翌日、リハビリのために歩きだしたが血圧が低く歩けなかったことについても、看護師さんから情報共有していただいており、その日の夕回診のとき、「血圧低くなっちゃったんだって?」と話してくれたのも、ケアしてもらっていると感じた。当たり前なのかもしれないが、話に出してくれることで、安心感を感じることができた。
看護師のみなさん
第一に元気で明るくハキハキしていた。その姿に元気をもらった。また、知識が豊富で、聞いたことに丁寧に回答してくれるので、安心できた。
例えば、ドレインの廃液の色について、まだ赤みがかっているように見えたので、どのくらいの色になったら大丈夫ですか?と聞くと、「悪いと、赤ワインのような赤い色にになります。そうすると縫合不全などの疑いがあります。乳白色の色も別の問題があります。今の色はそういう色ではないです。赤みは少しありますが、日に日に純粋な黄みがかった色になってきているので、順調に快方に向かっているんだと思います。」
また、縫合不全などの合併症になる可能性はどれくらいありますか?と聞くと、「糖尿や既往症、高齢の方で、割合が多い印象です。若い方での合併症の記憶はあまりないです。」という回答だった。どの看護師さんも回答にあたって、考えて回答してくれているのが伝わってきた。
元気づけの言葉ももらった。手術当日の夜、看護してくださった夜勤の看護師さんは、朝帰る前に、「明後日、会った時には、元気で歩いている姿を見れるのを楽しみにしてますよ~!」と言ってくれた。頑張って歩こうという気持ちにさせてくれた。
リハビリのために歩いていると、看護師さんの会話の中で、「ダブルチェック」という言葉が聞こえた。事故がないように、ミスをしないようにとされているのだろうけど、そうすると時間がかかる。一方で働き方改革、人手不足など、時間の制約は厳しい。ゆっくり話ができるという雰囲気はあまりなかったが、採血などに来た時に話をすると、よく話を聞いてくれた気がする。
また、昼のあいている時間には看護師さん同士で打合せをして業務の改善や要望を話しているようだった。日々是前進。
消化器外科について感じたこと
自分は30代後半で若いほう、ということだった。たしかに、お年寄りが多い。また、出会った人から経緯を聞いたが、悪くなるまで気にせず放っておいた、とか、定期検査をしていなかった、という人が多かったように感じた。そういう意味でいうと、2012年に見つかって放っておいて、ここまで何もなかったのは運がよかった。LECSという手術も数年前から導入されているようで、手術例が増えてきた中での手術はタイミングがよかったかもしれない。この病院を紹介いただけるような先生に出会えていたのも運が良かった。
入院時、一日のスケジュール
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※合間に検査、リハビリなど。
※時刻は、病院、病棟によっても違うかもしれない。
入院時におすすめすること
寝巻き(病院で過ごす服)は、レンタルをしたほうがいい。可能であれば。何かしらで、汚れる可能性が大きいため。レンタルだと何日か置きに着替えを持ってきていただける。自分で洗濯をしなくてもよい。
朝回診のときは先生と会話できるようにしたほうがいい。先生も忙しいので、次に話すのが、夕回診になりかねない。
手術を受けた本人の情報
身長175cm
体重70kg
小学校から高校まで野球部に所属していたので、基礎体力はあったかと思う。肺活量が一定程度ないと、全身麻酔での手術ができないということだった。スポーツをしていてよかった。また強い体を産んでくれ育ててくれた親にありがたいと感じた。
社会に拡張した話
さて、入院中や退院後、偶然にも、今回の経験に関わるニュースやネット記事、テレビの特集を見た。
病院赤字
感じたこと
赤字の改善として、原価低減などは行われているのだろうか。例えば、製造業では、購入品の原価低減活動というものがあるが、医師の友人の話を聞くと、医療機器については、原価低減活動はあまり行われていない印象を受けた。先生方は診療、手術、学会、論文発表などに忙しいため、基本的に使いやすさが重要である。機器を更新するときも、基本は以前使っていたメーカーの置換えとなる。メーカーを変えると、使い勝手が変わり、また新しいことを覚えなくてはいけないから、先生方には負担になる。当然、価格交渉に時間をかける余裕はないし、動機もない。メーカーが同じとなると、原価の大きな低減ははかれないことが多いと思われる。
また、赤字となってしまう理由としては、人件費の影響も大きいと思われる。現状では、患者をケアするには人手がいる。医療行為や医療機器を扱うための専門知識を有した資格(放射線技師など)が必要ということも人手を少なくできない理由になると思われる。
病院で見たある製品について、原価低減の考察をした。別の記事でまとめたいと思う。
消化器外科の診療体制維持
消化器外科学会 - 地域における消化器外科の診療体制維持のために必要な待遇改善(インセンティブの導入など)について、ご理解と後押しをお願いします
感じたこと
医師の友人から聞いた。外科を志望する若い人が減っていて近い将来、人手不足の問題になる。訴訟リスクであったり、上記の記事にある給与や忙しさが原因であるよう。
高額療養費制度
感じたこと
今回の手術はこの制度の利用に当てはまる。自己負担が上がる前に手術ができたのも運がよかったかもしれない。
NHK『プロジェクトX〜挑戦者たち』「革命トイレ 市場を制す」 2025年2月2日
胃という消化器の手術だったので、術後は何度もトイレに行った。トイレにいくたび、ウォシュレットを使う。このウォシュレットも開発に苦心した方々がいた。その人たちのおかげで、我々、患者の衛生も向上している。シャワーを浴びれたのは手術後5日目であった。シャワーに入れない期間があるので、その間のウォシュレットの存在は大きいと思う。
思うこと
さて、病院のシステムや、診療体制、看護体制、医療費制度、保険料、ウォシュレットの開発と、いま生きている私たちの社会は誰かが誰かのためを思って作られたものの上に成り立っている。それぞれのシステム、制度、製品開発において、過去に尽力された数え切れない多くの方々がいらっしゃる。その人たちのおかげで、今の私たちの生活があると最近感じることが多い。その人たちがいなかったら、その人たちがより良い社会にしたい、よりよい製品を作りたい、と思ってくれていなかったら、今日の私たちの生活はない。同じ部屋の方(80代)と話したが、「昔はみんな豊かになりたい、と思って頑張っていた」とおっしゃっていた。私たちは、いま貧しくなっていくことを感じることが多い。自己負担の引き上げ、控除の削減。それだけ、いままで「豊か」だったということは一つ言えるだろう。
「豊かさ」はどこにいってしまったのだろうか。「豊かさ」とは何だろうか。より便利な製品が世に出てくることか、それとももっと稼げることか、家族と過ごすことか。「豊か」になるにはどうしたらいいのか。ただ仕事を頑張れば「豊か」になれるのか。そうではない、何かがある気がしている。このことは、また他の記事で、考えていきたい。
お礼
今回、多くの人に助けて頂いたと思います。伝わるかわかりませんが、ここまで詳細を書きますと、分かる人にはわかるかと思います。FaceToFaceでサポートいただいた方、会わずとも陰でサポートいただいた方、たくさんいらっしゃると思います。手術直後は本当につらかったですが、無事、退院できまして、いまのところは少し不便はあるものの、手術前とあまり変わらない日常生活を送れております。本当にありがとうございました。